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運動会を「鑑賞」する大人と成績はリンクしますか [寛容な社会]

「【コラム】  筆洗      2013106  東京新聞  

 

  子どもの通う小学校の運動会で、涙腺が緩んでしまい困ることがあった。よーいドンの徒競走。低学年の子どもたちが懸命に走る。走る。足がもつれて転んだり、一位になれず悔しそうだったり▼自分の子どもでなくても健気(けなげ)な姿を見ると涙をこらえるのが難しい。そんな自分は変わり者かな、と少し気になっていたが、運動会観賞を趣味とするおじさんたちがかなり前から存在していたことを知り、少しほっとした▼エッセイストの故三国一朗さんが、先輩から聞いた話をエッセーに書いている。一、二年生の「かけっこ」を見学して涙を流すために、縁もゆかりもない小学校の運動会に潜り込む中高年の話である▼「遠目で見ると、白い豆粒のようにスタートラインに並んだ学童。それが、『ドン!』の合図で、いっせいに駆け出す。…子供たちの中の一人が、足がもつれるかしてコロリところんだりすると、そのころび方の一段の可憐(かれん)さに、観賞家は、もう手放しの号泣であるという」(『思いがけない涙』)▼肥満児だった三国さん自身は徒競走はいつもビリ。運動の苦手な子どもが心を痛めていることを思うと、とても運動会の観賞に出掛ける気にはなれなかったそうだ▼秋の運動会シーズンだ。校庭の隅で号泣しているおじさんがいるかもしれない。今の時代、不審者扱いされてしまいそうなのは少しさびしい。」

 

不審者とは違う、教育の場の問題。

 

「(声)子ども不在の校長名公表問題 50

 

 全国学力調査の小学6年国語Aで最下位だった静岡県の川勝平太知事が下位100校の校長名を公表すると発言し、公表に反対する県教育委員会と対立。結局、知事は一転して全国平均点を上回った86校の校長名を公表した。教育の本質とはほど遠い、子ども不在の議論にあきれた。

 私は小学校、中学校と、転校を繰り返した。都市部では、地方に比べて教育産業が盛んであり、塾が当たり前の環境になっていた。また、親の所得が高い地域ほど、子どもの教育に対する関心が相対的に高いし、塾や習い事の機会にも恵まれるという現実がある。当然そこには学力の差が生まれる。校長や学校の順位づけの議論は、体裁に過ぎず、教育環境の格差こそが問題の本質だ。

 そもそも、長い間、行われてきた記憶力に重点を置いた画一的な教育は、この先も必要とされているのであろうか。画一的教育によって人間の決断力や創造性を育てることはできない。長らく日本経済が、停滞から脱出出来なかった要因の一つには、日本のリーダーの決断力と創造性の欠如にあったのではないか。

 教育は国家の礎だ。決断力と創造性、そして深い洞察力を持った人材の育成こそが、日本再生の「第5の矢」となるはずだ。 」(928日朝日新聞)

 

そもそも校長の問題が学力の差とする発想がどうなのだろう。知事は、大学で教えたり、運営する立場にあった方です。十分に教育現場の実態は知っているのだと思います。校長がきちんとしていないから成績が悪いのだということでしょうか。だけど、成績順位は常にある訳ですし、全国トップになれば問題にしないということなのでしょうか。政治が教育に介入しないことが先の戦争の教訓だったはずです。それが他でも崩れていることが心配です。

 

 

 

 

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noga

 >静岡県知事川勝平太 またの名を嘘つき平太・・・この度は、全国学力テストで小6が最下位だったことから事は始まったようですね。
 >下位100校の校長名を公表すると唐突に表明したからさ~大変!
 >学校名を公表しないが文科省のルール、校長名とは記載されていないからこれはOKだとする県知事。
 >これに対し文科省では校長名イコール学校名との認識を示し県教委はこれを順守すべきだとの見解。
 >今回の件で、嘘つき平太に屁理屈平太がプラスされた。

学校長は、学校教育に責任のない人なのか。ただ、他の教員よりも金を多く貰っているだけなのか。
その責任者であるならば、問題があれば、名前を明らかにされても仕方がない。
問題の解決には、何よりも責任者の自覚が必要である。

意思のあるところに責任はある。
意思のないところには、責任がない。
責任者は、責任を持って問題の解決を図ることを期待されている。
無意思の責任者には、問題を解決する力はない。

死刑執行人は、殺人罪に問われない。
彼らは、殺意がないからである。彼らは ‘頼まれ仕事’ をしているのである。学校長の仕事もそのような ‘頼まれ仕事’ なのであろうか。

日本人には、意思がない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。
だから、日本人には、意思がない。

非現実 (過去時制と未来時制) の文章内容が表現できなければ、際立った個人差は出ない。どんぐりの背比べというか、犬と犬の違いに終始する。
個人主義を理解することも難しい。

我が国がひっくり返った時にも、国の政治責任者は出なかった。
「責任者を出すな。犠牲者を出すな」と言う声が上がった。
意思のない人が責任を追及されることがあれば、彼はまさしく犠牲者であろう。動物愛護の精神が必要。
学校長も、そのようなものか。とかく、この世は無責任。

心のある人とは、どのような人か。
自分の感情を表現する人か。ならば、歌詠みの人か。
自分の意思を表現する人か。ならば、行動の人か。

日本人には、意思がない。だから、自分の意思を示さない。
我が国は、世界の中にあって、世界に属さず。
日本人は、無為無策で高踏的*なのか。
我々は自分自身の意思を示すよう心掛けて、来るべき国際化社会に備えなくてはならない。

 *高踏的 (自分ひとり高いとしているようす。おたかくとまるようす。)

http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/



by noga (2013-10-08 12:18) 

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