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糖尿を案じて [平和]

 

 

糖尿についての投書です。

 

「糖尿の主治医それはあなた 63

生まれて初めて入院した。昨年、どうにもこうにも体が悲鳴を上げて、高い血糖値とともに3週間の入院生活に突入した。
主治医の先生より「原因も治し方も分かっていますから、安心してください」 と心強い言葉を頂き、治療に専念して退院にこぎ着けた。 元々凝り性なので、糖尿病用の食事を栄養士さんに聞いた通り実行した。ぐんぐん血糖値が安定してき
た。食品交換表を使い、白米を豆や芋、パンに置き換えて食す。足りない時は海藻、キノコ、こんにゃくで 補充して11600キロカロリーを維持する。 お医者さんの「糖尿病の 主治医はあなた自身ですよ」という言葉を心にしっかりと受け止め、運動は家の片付けが一番と日々、頑張っている。しかしながら、日本では4人に1人が糖尿病らしい。何ともはや・・・。」

(2017325日西日本新聞)

 

私も米食中心ですので・・・。だが、こんな投書を読むと平和がなければと思いました。

 

1日に米10粒 餓死の悲惨さ
 77

ご飯の炊きあがったおいしそうな匂い。幸せの一瞬。が、「110粒」と呪文のような言葉が頭をかすめる。親友のお父上は40代で戦死。餓死だったそうだ。手を尽くして、やっとそ
の消息が分かったのは、彼女が50代になってから。 以来、何度もかの地に慰霊の旅をしている。昨秋に 訪れたとき、現地の人が「台風の後、またまた骨が出てきて・・・」と、気の毒そうに言ったそうだ。戦場は激戦の地、フィリピンのレイテ島。白骨街道と呼ばれたそうだ。大の男が敗走に次ぐ敗走の中で、1日米10粒。餓死するまでの苦しみを思うと、あまりにも悲惨である。敗戦後の引き揚げ以来、私たちにも食料がほとんどない時代があった。100歳になった母がきっぱり言い切った。「一人も子どもを死なせなかったことが、私の一番の幸せです」と。」(2017324日西日本新聞)

 

平和の大切さが改めて感じられます。同じ日の投書にはんなものもありました。

 

「原爆で娘失い 自分責めた母  70

 母が昨年暮れ、96歳で逝った。広島原爆に遭い、長女の手を引き、死の灰と燃え盛る炎の中を必死に逃げた。が、数日後、長女はバラック小屋の病院で、配給のたった1本のろうそくの薄暗さの下、5歳という短い生涯を終えた。 娘に会うのを楽しみに帰還した父を待っていたのは、何と四十九日の法要だったそうだ。
その父も戦争の後遺症で 35歳の若さで、2歳の弟と7歳の私を残して旅立った。それから私が嫁ぐまで、母の寝姿を目にした記憶が

ない。母のたくましさには本当に頭が下がる。昨年、オパマ米大統領が広島を訪問した映像を見て、母は涙ぐんでいた。「ごめんね」と、仏壇の長女に手を合わせていた。死ぬまで自分を責めていた。母に原爆のことを尋ねたことがある。「本土決戦になっていたら、さらに多くの犠牲者が出ていただろうから・・・」と意外な言葉が返ってきた。つらい過去を背負って生きた母だった。「今までありがとう」と一筆添えて、父と姉の写真も一緒にひつぎの中に、そっと入れた。」(同前)

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「生きる意味」 [認知症]

 

 

茨木のり子の夫は医師だった。

 

「モーツアルト  茨木 のり子

 

鬱病の治療には

最近

モーツアルトをきかせる方法もある

と精神科の医師が語った

 

一日患者の訴えに耳を澄まし

それがいかにしんどいことであったか

疲れて帰宅したあなたは

飢渇(うかつ)を癒すかのように

モーツアルトの流れに身を浸した

だったらあれは

無意識の自分自身への治療だったのでしょうか

どこかに暗さと寂寥(じゃくりょう)とを隠していたひと

深く考える者にはさけられない

鬱(うつ)へのかたむき

 

<伯父さんのコレクションは趣味がいい>

甥がきて

若々しい手つきで

ひらり一枚のレコードをかけると

部屋いっぱいに

天上の音楽は溢れ

久しぶりに聴く」

 

モーツアルトは血圧の安定にも良いということでパソコンに取り入れています。

 

認知症を理解することはなかなか難しい。次のように述べられていました。 

 

認知症当事者はこう言うそうだ

「『生きる意味が、私を支えている』

生きる意味?

「幸せになるコツは?どうしたら幸せになりますか」と尋ねた時も。ポールはこう答えた。

「自分の人生に意味があるということ。『夜と霧』の著者で知られるフランクル(精神医学者)は、アウシユビツツで生き残った人は、人生に理由があって生き残ったと書いている。ある人は生き残って家族の歴史を書きたい、(略)

二人の生きる意味――アルツハイマーは「空っぽの人間」だという偏見を打ち砕き、診断後のもっとも苦しい早期の人々への支援の輸を広げること。そして「いま」を味わって楽しく生きること。これが病にならなければ出会わなかった二人のプロジェクトだ(一部引用)

 

当事者の参画という点でも認知症当事者は進んでいます。最近は、ドライバーの認知症検査についても要望を出されたと聞きます。正しく理解することが大切だと思います。

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「清冽-凛としたたたずまい」 [高齢者]

 

 

タイトルは詩人茨木のり子氏の評伝のタイトルです。西日本新聞の1面コラムは「春秋」です。それにならった読者の「春秋」の募集で優秀で新聞に掲載されたものです。

 

「丸 山孝子さん(62)

題材

戦後70年の昨年は茨木のり子さんの詩〈わたしが一番きれいだったとき/まわりの人達が沢山 死んだ/工場で海で名もない島で・・・〉(「わたしが一番きれいだった とき」)を読み返す人が増えた今月17日 で没後10年になる茨木さんの最期を思い返
す人も増えたかもしれない。思い返すたび に、「戦後現代詩の長女」と評された人らしくキリッとしていた、と思う▽40代で夫
に先立たれ、独りで暮らしていた茨木さんは79歳で急に病気で亡くなった。親しかっ た人たち、お世話になった人たちへの「お別れの手紙」を、自分で書いて印刷も終えていた。親族が日付と病名を書き加えて郵送した▽〈このたび私・・・この在におさらば
することになりました。これは生前に書き置くものです〉で始まり、葬儀やお別れ会などは何もしない旨を添え〈「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます〉と書いていた▽50代の時の随筆「花一輪といえども」(1994年の随筆集「1本の茎の上に」筑摩書房・所収)の中に「送りかた送られかたはいろいろであっていい」「『このようにする』と言い残すことはできる」とあるどうして自分は死ななければならないのか、と誰かに聞くこともできずに戦争に命をもっていかれた人々の、たくさんの無念にも思いをはせさせてくれる送られかただった、とあらためて思う。(昨年27日掲載)」(2017321日西日本新聞)

 

 これを読んだのが茨木氏の死後刊行された『歳月』という詩集を読んだばかりで深く同意したように感じました。それは私の勝手な思い込みなのですが・・・。

 

そして、丸山さんは次のように述べています。

 

「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます。 これは、27日の春秋に掲載された茨 木のり子さんの生前書かれた「お別れの手紙」の一部だ。まさに私自身、常々こう思
っている。「冠婚葬祭」が苦手で特に葬式 のセレモニーに違和感を覚える。 出席しながらいつも「私は葬式はいらな い」とつぶやく。かつて私を知った人が私 の死を心で悼んでくれたら、それで十分だと思っている。茨木さんは「送りかた、送られかたはいろいろであっていい」とも書かれている。

若い頃から死をみつめて生きてきた。子供の頃、病床に伏して横たわっていることが多かったからかもしれないが、それは大人になるにつれ明確になってきた。まず物は減らしている。突然、事故で自分が家に戻らぬことがあってもいいように、できる限り部屋は整えている。かつて
の部屋の主として魂だけは戻ってきている かもしれないから。そして荷物でなかなか捨ててきれないのは、新聞記事のスクラップ や本、映画などの感想を書いたノート、という活字にまつわるものが多い。しかしこれとて興味のない人にとってはただの紙くずだ。燃えるゴミにすぐに出せるようまとっている。

服もコートやスーツなど、シンプルで丈夫な物が私とともに年を重ねている。体形 はほとんど変わらないまま、今に至っているので服が極端に増えることはない。すっきりしたクロゼットやタンスをみるたびに心の中まで、さっぱりする。かつては本にうもれていたが、一番重いのでほとんど処分した。だらだらと書きつづった日記は、一年前の物から年末に処分

ている。ただ思い出深い若い頃の日記だほ捨てきれず残している。「終活」などという言葉も好きではなく、もともと物のない空間がおちつくので常々そうありたいと思っているだけだ。しかし茨木さんのように「お別れの手紙」書くほど知人がいないことに私は気づい

た。父母の病、そして死をみつめるうちに、自分の人生からあらゆるものをそぎおとして生きてきた気がする。 「あとは死ぬだけ」と、ときどき自分につぶやく。そして植物や動物たちの小さな手でふれるたび「長く生きるんだよ」と心を寄せている。」(同前)

 

 

私が50歳代のころ、どう死ぬか考えることがあると話したところ、当時、還暦近かった人から、そんなに若いのにと驚かれました。それは、私には死を還暦近くまで考えないというのに驚きました。茨木のり子氏の死を「孤独死」だったという報道がありました。しかし、生前用意されていた「お別れの手紙」は200通もあったという。それを孤独死とはいうまい。今月、ひっそりと古い友人が逝った。重い病と知ったときはもう最後に近いと家族は言っていたという。静かに送りたいという家族の思いは悲しみの深さを感じました。合掌。

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ダウン症の日 [障がい者問題]

 

 

「(声)ダウン症の日、社会の成熟望む 41歳 2017321日朝日新聞

 「最終的に独り立ちし、楽しんで生活してくれれば」。私が勤める塾に子どもが通うご父母の方々とそんな話をしました。塾には、ダウン症や自閉症など様々な理由で学びが困難な子や若者が多く通っています。

 私にも6歳の息子がいます。出産前はどんな子に育つか、夢がふくらむばかりでした。でも落ち着きなく動き回る子に育児の大変さを痛感、親の願いは冒頭の言葉に尽きると感じています。障害の有無に関係なく。

 一方、障害のために普通学級を諦めざるをえなかったり、特別支援学校の高等部では職業教育が中心になったり、学びたいという子どもの欲求が制約される例を耳にします。学んでも、就職がままならない状況も。

 胎児の染色体異常を調べる新型出生前診断を受ける人がいるのも、異常が確定した方の94%が中絶を選んだのも、こうした現状への不安からでしょう。診断を受けるかどうかは親の価値観の問題と見る人もいるようですが、社会の成熟度の問題ではないでしょうか。

 3月21日は「世界ダウン症の日」。これを機に関心をもつ方が増え、改善への力が少しでもふくらんだらと願っています。」

   

相模原事件では犯人は「障害者はいないほうがいい」という。それについての社会的背景を次のような指摘があります。

 

「優生思想を克服できていない私たち

 障害者はいないほうがいいという考えは、はたして私たちの日常から、かけ離れたものでしょうか?

 ダーウィンの進化論を背景にした「優生思想」は、20世紀初めに英国のゴルトンが提唱し、世界各国に広がりました。不良な子孫の出生を減らし、優秀な子孫を増やそうという考え方です。ベースには、役に立たない人間はいないほうがよいという発想があります。当時は遺伝学に基づく科学的で革新的な考え方として受け取られました。

 極端な形でそれを実行したのがナチス・ドイツでした。ユダヤ人の収容・殺害より前の1939年から、精神障害者、知的障害者、神経疾患の患者などを安楽死させる「T4作戦」を秘密に進め、20万~30万人を「価値なき生命」として抹殺しました。ただし優生思想はナチスの専売特許ではなく、米国や北欧諸国でも、断種法による障害者への強制不妊手術が第2次大戦後も長く行われていました。

 日本では38年に設置された旧厚生省が「民族優生方策」を掲げました。戦時中は本格的に実行されませんでしたが、戦後の48年に制定された優生保護法により、精神障害者や知的障害者らに約1万6500件の強制不妊手術が行われました。ハンセン病患者にも事実上の強制不妊手術が行われました。いくつかの地域では「不幸な子どもの生まれない運動」が行政主導で展開されました。

 「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことをうたった優生保護法は、96年に母体保護法に改正されるまで存続していました。わずか20年ほど前のことです。その後も優生保護法に関する公的な検証や謝罪はまったく行われていません。

 現行の母体保護法に、胎児の障害を理由に中絶を認める条項はありません。しかし、現実には出生前診断が広く行われています。近年は母親の血液検査で精度の高い染色体異常の判定が可能になり、胎児の障害を知った親の多くが中絶しています。

 障害者を不幸な存在、社会のお荷物と見る考え方は珍しくない。むしろ、ありふれています。私たちの社会は、優生思想を克服していないのです。」(
コラム  原記者の「医療・福祉のツボ」  相模原事件再考(下)「乱暴な正義」の流行が、危ない素地をつくる2017317日読売新聞)

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震災が過去に [障害者福祉]

 

 

先日まで震災後6年という報道が続いていました。新聞は何ページも割いて今の被災地を伝えました。ですが、何ページも新聞を読むことに慣れていないので、力作なのでしょうがあまり読めませんでした。報道する側には思い入れもあるのでしょうが、ご馳走を並べて満腹でも食べろと言われているみたいでした。喩えが悪いですが・・・。

 

障害者福祉の現場はどうなのでしょうか。

日常的に実態が伝えられればと願うのですが・・・。

 

「東日本大震災から6年今、福島は  デイさぽーとぴーなつつ施設長 郡 信子

 

福島の今

ふと気づけば梅の花が咲き始めています。喜びの春を待ちながらも、あの大震災を経験した私たちは、震災の年を数えるのが身に付きました。そう、もう、6 年です。

2月初め、「第一原発2号機格納容器内推定 530シーベルト」という報道がありました。格納容器内調査ロボットが、2号機の中では、2時間足らずで 壊れる計算らしいです。人は数十秒被ばくすれば死亡 するレベル。原発の収束は、人力ではまだまだ及ばな いのではないでしょうか。そのような中、この春に
は、福島第一原発事故の避難指示解除の町や村\地域 が一気に増えます。原発再稼働も聞きますが、福島の現実をもっともっと見つめていくべきと思います。

 

 障がいのある人たちの今~相談支援の現場から

最近、仮設住宅から復興住宅へ引っ越したGさん (60代女性) 。仮設住宅では度々転倒して、あざや、
肋骨骨折がありました。精神疾患で夏には入院もしま した。しかし、週6日、11-2時間ヘルパーさん に食事や買い物、入浴をしてもらい、精神状態が安定 して過ごせていました。転居に向けて、人手不足と言
いながらも、週1回、掃除の時間を増やし、生活支援 相談員の訪問もお願いできました。今後、全盲で知的 障がいのある男性(60)も仮設住宅から復興住宅に 引っ越します。独居の新生活を支えるのはとても厳し
いです。昨年末から復興住宅入居が進み、1か所に5 階建の棟が8つくらいありますが、他町村の人たちも 混在します。ご近所さんが誰かわからない不安の中で の新生活の始まりです。

 南相馬市の小高区は昨年7月に避難指示が解除されずでしたが、1割の1000人程度の帰還らしいです。高齢 者がほとんどで、障がいのある方もいます。仮設住宅で生活している視覚障害のTさん(80)は、「小高までヘルパーが来てくれない」と帰還に足踏みと聞きます。震災後、脳梗塞で半身マヒになったKさんの家族も、Kさんのために浴室や家をリフォームしたけれ ど、リハビリなど小高の家には来てくれないから復興住宅で生活すると言っています。視覚障害のYさん (70)は、5月に小高の家に息子夫婦と帰還が決 まっていますが、小高では同行援護は使えない(ヘル
パーが行けない)と言われ困っていると相談がありま した
。自宅周辺は以前とは変わり一人では歩けないた
め同行援護を使って覚えたいと訴えています。 生活介護事業所利用希望に、養護学校を卒業する脳 性マヒの生徒、自傷他害のある自閉症の生徒、4月に 仕事の関係で南相馬に戻るが、発達障害、情緒不安定 で目が離せない娘さんの相談もあります。今、ヘル パー不足、職員不足で事業を縮小、重度の方の受け入
れが厳しいという大きな壁に直面しています。 .震災を風化させない

震災では、弱者が厳しい状況に置かれました。命を 守ることが求められました。自立支援協議会の災害部 会が立ち上がり、震災時の検証をし、福祉避難所の指
定・運営のためのセンター化、要配慮者名簿の更新、 個別避難計画の必要性等を話し合ってきました。現在 は、災害検討会という形で、やはり「命を守る」とい う観点、で災害時に使えるものを目指して話し合っています。

労働人口が少ない中、関係者と知恵を絞って障がい のある人たち・地域に向き合っています。熊本や鳥取 の地震、台風や豪雨、火山噴火、豪雪様々な災害が 日本国中を脅かします。いつでもどこにでも起こりう る災害に、経験したことは風化させない。語り継ぎ、 考え続けていくことが大切と思います。」(日本障害者協議会 すべての人の社会 2017.3月号)

 

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義務教育で手話を [支え合う社会]

 

 

茨木のり子氏没後の詩集『歳月』を読んでいます。

 

「最後の晩餐

 

明日は入院という前の夜

あわただしく整えた献立を

なぜいつまでも覚えているのかしら

箸をとりながら

「退院してこうしてまた

 いっしょにごはんを食べたいな」

子供のような台詞にぐっときて

泣き伏したいのをこらえ

「そうならないで どうしますか」

モレシャン口調で励ましながら

まじまじと眺めた食卓

 

昨夜の残りのけんちん汁

鶏のから揚げ

ほーれん草のおひたし

 

我が家での

それが最後の晩餐になろうとは

つゆしらず

入院準備に気をとられての

あまりにもささやかだった三月のあの日の夕食」

 

モレシャンがどれだけの人に通じるかと思いつつ、通じる私ににやりとして。

さて、次の意見には全面的に賛成です。テレビの手話講座でなんとかならないかと思いましたが、なかなか難しい。小さい時から学んだが良いのでは。

 

「(声)義務教育に手話を取り入れて 14歳 2017320日朝日新聞

 

 「聴覚障害者には唇を見せて」(2月7日)を読んだ。投稿者は聴覚障害者で、「マスクをずらして、唇が見えるようにして頂きたい」と訴えていた。私も同じ意見だ。

 私には聴覚障害の祖母がいる。祖母の苦労をこの目で見てきた。例えば、レジで店員さんが「○○円です」と言っても、祖母の耳には届かない。祖母は金額表示を見て、代金を支払う。それに気づいた店員さんが口の動きを大きくして、再度金額を言ってくれることもある。

 聴覚障害は外見で判断しにくく、相手はなかなか気づかない。そのため、コミュニケーションに苦労することが多い。相手が聴覚障害者だと分かったら、口の動きを大きくしたり、身ぶり手ぶりを加えたりしてほしい。

 一つの提案をしたい。義務教育の必修科目に「手話」を取り入れることだ。将来、手話を使える人が増えれば、聴覚障害がある人もない人も、もっといろんな人との交流が可能になり、人生が豊かになるのではないかと思う。」   

 

国連の障害者権利条約は「手話」は言語として認定しています。そして、国内でも言語つまり国語であるという活動が広がっています。ただ、年配者は難聴者も多いので別の問題もありますが・・・。

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日本生まれの点字ブロック [障がい者問題]

 

 

これは誇りにしたいことです。

 

「【コラム】    
筆洗        
2017
317日東京新聞

 

  ウォークマンにクオーツ式腕時計、カッターナイフにインスタントラーメン、液晶電卓にカメラ付き携帯電話と、日本が世界に送り出したとされる発明品は数々あるが、中には「これが日本生まれ!?」と驚かされるものもある。目の不自由な人たちのための「点字ブロック」だ世界で初めて、点字ブロックが敷設されたのは、岡山県立盲学校近くの歩道。一九六七年三月十八日に生徒が渡り初めをしたというから、明日がちょうど半世紀の節目岡山で旅館などを営んでいた三宅精一さん(一九二六~八二年)が、道路を渡っていて車にはねられそうになった視覚障害者の姿を見て思い立ち、試行錯誤を重ねて作りだした▼最初は行政に相手にされず、私財を削って百枚単位で寄贈する形で普及させていった。それが国内だけでなく、世界中で使われるようになったのだから、世界に誇るべき日本発の発明品だろう▼だが、目の不自由な人たちの足元は今も危うい。駅のホームからの転落などによる悲劇が繰り返されているが、日本盲人会連合などの調査によると、視覚障害者の三割がホームから転落した経験があるという。ホーム上で困ることとしてはほとんどの人が「点字ブロックの上に荷物を置く」「スマホを操作している人とぶつかる」と答えたそうだ▼あらためて足元を見直したい、「点字ブロックの母国」である。」

 

ですが、転落死が続いています。視覚障害者が社会参加するには壁が高すぎます。それは、高齢者・幼児にも似たような危険がホームなどにあるということではないかと思います。お互いの注意で防げる危険もあるのではないかと思う。

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70歳過ぎると・・・ [高齢者]

 

 

「働き方改革  期待せず47% 求職登録の主婦調査 毎日新聞2017318

 

正社員と非正規労働者の不合理な待遇差をなくす「同一労働同一賃金」の実現や、長時間労働の抑制を目指している安倍政権の「働き方改革」について、求人・求職サイトに登録している主婦のうち「期待していない」と答えたのは47.2%で、「期待している」の42.8%を上回ったことが民間企業の調査で分かった。安倍政権は女性の社会進出を促そうとしているが、働く意欲のある主婦は冷ややかに受け止めている形だ。
(以下略)」

 

「同一労働同一賃金」の本来の意味はなんだろう。「不合理な待遇差」をどう解釈するかでどうにもなるという発想では解決にはならないと思うが・・・。

 

たしかに40歳がいつのまにかやってきたという記憶があります。ただ、慌ただしく過ごしたように思います。今の年になるとそんなあわただしさは消えたのに早い。脳の酸素吸入量で時間感覚が変わるという説がありますが・・・。

 

「花時計

 

30を過ぎると1年はあっという間だぞ」との上司の言葉を「大げさな」と鼻で笑う・・・そんな新人時代が最近のことのように思えるが、気付けばもうすぐ中年の仲間入り▽今は1年なんてあっという間だが、思えば小学生の頃は1年どころか1日がとても長かった。それまで生きた時間と比べると、10歳にとっての1年と30歳の1年は感じ 方が違うのは当然か。では4歳になるわが子の1年、1日、そして1分は?抱っこをせがまれ「ちょっと待って」と我 慢させている時聞は、本当に子どもにとっても
「ちょっと」だろうか▽新人だった私に上司が伝えたかったのは「今を大切に」ということだと今なら分かる。たくさんの「今」をおざなりにしてきた反省も踏まえ、子どもの「今」くらいは大切にしよう。(河津由紀子)」(2017318日西日本新聞)

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障害者が働くには

 

 

昨年の九州場所から稀勢の里が所属する部屋の宿舎が近くにできましたので応援しています。そのときは、豪栄道が優勝した後だったのでマスコミも注目していませんでした。横綱になって祝賀行事続きでどうかなと心配していましたが、今のところ順調ですが、心配します。大きな横綱になってもらたいたい。年末に姿を見ることを楽しみにしています。

 

「けがに注意し名横綱の道を

大相撲初場所が盛況のうちに終わり、ファンが待ち焦がれだいた日本出身横綱が19年ぶりに誕生した。
稀勢の里関には、今まで何度となく期待を裏切られた。中盤までは強いが、終盤になると人が変わったように体が動かない、足が出ない。手に届く所まで来ている優勝を何度も逃した。ファンとしては、何と歯がゆかったことか。本人も表情には出さずとも、気持ちはいかばかりだったか。今、初優勝と横綱昇進をつかんだ稀勢の里関に大きな拍手を送りたい。
今後は名横綱の道を歩んで ほしい。今の大相撲で残念なのは、けがや故障で十分に力を発揮できない力士が少なくないこと。休場する力士も多い。年6場所となり、本場所が終われは、すぐ巡業。体のケアをする時間もあまりない。相撲協会もそのあたりを考慮して、巡業とかの日程に目配りすべきだ。201721日西日本新聞

 

次の事件には驚いた。一般紙では読んだ記憶がありません。これでは、改善されるかどうか。

 

「障害者 「バカはバカなりに努力しろ」--トンデモ上司から暴言を吐かれた部下が自死

 2017219日号 Texts by サンデー毎日

「行ってらっしゃい。気をつけて行きなよ」「はい、行ってきます」。母子で交わした最後の会話だった―。昨年、電通の過労自死問題があったが、障害者が会社から不適切な扱いを受けて自死する事件もあった。そこには旧態依然とした企業の姿勢が見え隠れする。

2014年5月20日、鈴木航(こう)さん(当時18)は出勤のため午前6時40分に玄関を出た。普段より20分早い時間だな、母・ゆかりさん(49)は一瞬そう訝った。同9時45分すぎ、会社から出勤していない旨の連絡があり、直後に警察から電話が入った。

「何かの間違いであってほしい」 ゆかりさんのそんな願いも空しく、航さんは貨物列車に飛び込み帰らぬ人となっていた――。

浜名湖のほど近く、静岡県浜松市西区舞阪(まいさか)で生まれ育った航さんは、明るく元気でスポーツが得意だった。4歳年上には仲のいい兄・海(かい)さんがいる。「海(うみ)を航(わたる)」ような大きな人間に育ってほしい、そんな両親の願いが込められていた。

小学校高学年になったとき、通知表が「オール1」になり、検査をすると軽度知的障害と学習障害があることが判明。療育手帳が交付された。

航さんの特性は、文章を読んだり意味を把握したりすることに時間がかかり、会話の文脈を瞬時に理解するのも難しい。なので、分からなくても「はい」と答えてしまうこともしばしばあった。それでも、何事に対しても一生懸命に真面目に取り組む姿勢は崩さなかった。

「俺は頭悪いけど、皆勤賞なら取れる」

 生前、航さんがこう宣言していた通り、小中高と普通学級で努力を重ね、12年間に一度の欠席もなかった。

高校卒業後は、車に関連した仕事がしたいとの希望通り、自動車部品メーカーの富士機工(湖西市)に障害者枠で採用された。入社直前の14年3月26日、ゆかりさんは、見た目は健常者と変わらない航さんの障害特性を理解してもらうため、富士機工を訪れた。持参した資料にアンダーラインを引き、縷々(るる)説明し配慮を求めた。

ところが、1週間の研修は大卒の健常者と同じメニューだった。既にここで、航さんにとっては大きな負荷がかかっていたことは容易に想像できる。ゴールデンウイーク明けの5月6日からは、車の部品を製造する金型プレス工場のラインに配属された。

 冒頭の痛ましい悲劇はこうした流れの中、入社からわずか50日目に起きてしまった。愛息を失い悲嘆に暮れる家族。だがそこに、どうしても拭い切れない違和感があった。(以下略)」(本誌・青柳雄介)

 

障害者が今の企業で働くにはこんな壁もあるということですね。差別解消法が施行され、働く場での差別禁止が求められています。ただ、この場面では、差別も問題ですが、職場になじむための職場定着という支援が必要だったことを示しています。学校も、企業も、家族も、当事者も、支援体制の確認が求められるのかなと思いました。痛ましい事件です。

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残りの人生への挑戦? [高齢者]

 

 

古い友人が亡くなった。そっと見送りたいという家族などの思いに、本人の生き方が重なります。渡瀬恒彦さんが亡くなったという報道の日に知りました。ご兄弟のリスペクトしあう関係は親御さんの教育もあるのでしょうか。同じ日に、WBC日本チームの投手コーチが鳥栖市出身の78歳の権藤さんと知り、本番前の状態から本番ヘの変化に理屈抜きに納得してしまいました。それは、要請した小久保監督への賛辞でもあります。野村克也氏がかつて何かで書いていたと思いますが、プロ選手で本を持参する人はほとんどいない(野村さんの目では)のに読んでいる。これは違うぞとか思ったという記述を思いだました。そして、練習環境の改善を求めて球団幹部と対立し、無償トレードされてしまいました。それらを乗り越えてきた小久保監督にもエールを送りたい。

 

というのも、最近老化現象が激しく、つまずくし、物忘れも増えて、とても前向きに生きていくなどとは思いもできせんでした。最近の出来事から感じることは、それぞれの人生にはいろんな形があるということ。それをどう生きは切るかなのではと思いましたというと、カッコ良いのですがすぐに忘れて落ち込むと思いますが。

 

「孫と卒業競う 大学「45年生」  70

 世の中には努力の人がいらっしゃるものです。しかも、身近に。本紙2月中旬の筑後版「76歳、三池工定時制卒業ヘ」を読み、驚きと感銘を禁じ得ません。
まずは、心から「おめでとう」を送ります。何ごとも目標を持ち、諦めない気持ちがいかに大切か、教えてくれました。やる気をも らいました。 私が通信制大学の門をたたいて約45年。留年、退学、 再入学を繰り返し、諦めかけていた「卒業」の2文字 に光明が差し込む思いで
す。改めて、わが学業を見直してみました。合格リポートより不合格が断然、多い。自分の不勉強は棚に上げ、添削者の名前が鬼に映るときがあります。卒業に必要な単位は131。現在まで77単位を取得、残りは54単位。今からでも遅くない。諦めたら終わりです。孫娘も4月から大学生。「よし、卒業を競争するか」。古希のハートに火がつきました。」(2017316日西日本新聞)

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