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馬が身近にいたころ [自分史]

 

 

60年前ぐらいの農家では馬小屋が農家にはありました。

 

「出水 村田喜代子

今ちょうど連載小説で、太平 洋戦争当時の女性たちのことを 書いていて、そこに東北の農村 の馬が出てくる。農耕馬だ。一生を飼い主の言うことを聞いて、身を粉にして労役に就く馬たちは、家の中で人間の息子たちと変わらなかった。 馬を見るとき、その家の主婦 を見ると分かる、といわれた。 人間の子どもと同じで、馬は主婦が養育した。情愛深い賢い人 聞の母親の手で育てられた馬 は、少し違うのだろうか。馬に も生まれついての性格があるか ら、荒馬などはずいぶん大変だ ったろう。 一人間の子どもが一人二人でさえ、親は心労が絶えない。物を言わない牛や馬にはまた別の苦労があるはずだ。それに人間の子どもは親の自然な情愛がともなうけれど、家畜へは情愛と共に、感謝がある。昼寝している犬や猫でも餌は与えられる。牛馬たちは餌を貰うだけで、人に奉仕する。人間の子は成長すると出て行くか、家畜は自ら飼い主のそばにいる。(一部引用)」(2017713西日本新聞

 

農薬が多用される時代になるころ、消えていったように思います。ですが、馬についての記憶は悲惨な場面ばかりです。農家の火災で逃げ出した馬が近づいてきたときの怖さ、1953年(昭和28)の大水害時に濁流に流される馬がいました。可哀想な思いでしかありません。今回の水害ではどんなことがあったのでしょうか。

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新聞社との関りで [自分史]

 

 

新聞の投稿を読んで記憶が甦りました。しかし、確かな記憶でもありません。1958年新聞社の伝書鳩廃止といえば昭和33年。私の記憶では西日本新聞見学したのは小学生なので昭和32年以前。何か暗い感じの印刷工場などと鳩小屋を見たように思います。修学旅行でなく社会科見学だったように思います。

 

「本社見学の際ハト小屋見た  78

朝食後、新聞を聞く。「春秋」で伝書バトが新聞社に導入されるに至った話を興味深く読んだ。「西日本新聞創刊140周年特集」の中で「19584月に『鳩班』廃止」の文字を見て、 気になっていたのだ。 小5の時、福岡への日帰り修学旅行で西日本新聞社の見学があった。その時、 屋上でハト小屋を見たのを覚えている。そう、まだ伝書バトがいたのだ。 私にとっては、物心ついてからずっと西日本新聞o42810日に福岡日日新 聞と九州日報が合併して西 日本新聞となった事情もよく分かった。前夜遅くまであったプ口野球の試合結果が午前3時ごろにわが家に配達されてくる新聞に載っている。驚く。情報技術の発達は私の想像をはるかに超えている。ネットで情報を得ることのない私には、新聞が貴重な情報源。単に読むだけでなく、人工知能では不可能な記者の「伝えたい思い」もしっかり受け止めたい。」(2017525日西日本新聞)

 

新聞のコラムからです。鳩がいなくなり、原稿用紙も消えました。社会の動きが激しい半世紀だと思います。棚から使わずにしまわれていた原稿用紙がたくさん出てきました。製薬会社とか、出版社のものですが・・・。

 

「デスク日記

 休日の昼下がり、原稿用紙を買いに出掛けた。中学生になった娘が作文を書いて提出するという。どこでも買えると気軽にコンビニへ。文具コーナーに履歴書やノートはあるが、探し物は置いてない。続けて3店、さらにスーパーも空振り。足を延ばした文具店は姿を消していた。

 私が新聞社に入った頃、原稿は原稿用紙に手書きだった。デスクに出した記事は、赤ペンで真っ赤になった。それから30年近く、鉛筆やペンはワープロに代わり、今やパソコン。活字の報道機関ですら、升目の紙は見掛けない。

 小学校近くを通ると、目に入ったのが少々古びた文具店。あった。ようやくその店で見つけた。ネット通販では手軽に購入でき、作家もパソコンで執筆しメールで送るのが当たり前の時代。店長に感謝を伝えると「原稿用紙は前よりも売れない。でも専門店だから置いとかんとね」と言ってくれた。予期せぬ収穫に胸が熱くなった。 (永野稔一)=2017/05/17付 西日本新聞朝刊=」

 

 

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与田準一氏を思い出した [自分史]

 

 

まさかこんな人脈で与田準一氏が出てくるとは・・・。

 

「近況往来  児童文学作家 岩崎京子さん

 

淡い藍色の入った久留米絣のブラウスコートを羽織りローヒールの靴でトー
クショーの舞台にさっそう と現れた。代表作「かさこじぞう」など多数の作品を'送り出してきた児童文学のペテランも現在、94歳。

父は筑後の人間で、私 が小学生のころ修身の教科書に(久留米絣の祖の)井上伝が載っているのをめざとく見つけて大喜びしましてね。何かと筑後を娘に宣伝して爆弾三勇士も自慢。この辺に来ると懐かしい」長年の友人、絵本作家の長野ヒデ子さんを対談相手に先月、福岡県大木町で開かれたイベントでは筑後地方との関わりや創作についておっとりとした口調でざっくばらんに語った。(略)

筑後地方とは縁が深い。 自身は東京生まれだが、父の故郷が旧三井郡大城村 (久留米)。児童文学の世界で師事したのも旧瀬高町出身の与田準一氏。 「きちんと日本語の勉強 をしなさいと言われ、ご自宅の玄関に原稿を置いてきては翌週取りに行くといった具合でね」文学は人間を書くものだ。もっと窓を開けて世間をみなさい、とそれは怖い先生だった」

井上伝の半生を描いた小説「久留米がすりのうた」など各地の民話や伝統文化を取材し、すがすがしい筆致の作品で定評がある。目下、
福岡県北部の芦屋ゆかりの話を素材にした物語に取り組む。旧東海道沿いにあった横浜の腰掛け茶屋が古い伊万里焼を大事に使ってい

なたのを不思議に思って話を聞き、芦屋との縁を知った。 「幕末に芦屋の商人が茶わん船を仕立てて売りに来 ていたそうです。ご飯炊き
で少年も乗り込んで。その 少年が主人公  

ね」と水を向けると、すかさず「東京じゃ 詳しい資料がなかなかなくて、芦屋に行って取材しないとね」。ひょうひょうと言つてのけた。(神屋由紀子)」( 201745日西日本新聞)

 

岩崎京子氏のことは名前は知っていますが、詳しくは知りませんでした。与田準一氏は若い頃、瀬高町の隣の当時の八女郡水田村の下妻小学校の教員をされたということで作詞されたと聞きました。作曲はかの有名な中田喜直氏です。校歌ができたのが1953年。この年には筑後地区の大洪水があり、それでたまった土砂で「築山」ができたとHPで記されています。そこで築山に駆け上った記憶がよみがえりました。

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さげもんとセッちゃん [自分史]

 

 

西日本新聞コラムからです。

 

「 春秋

 

 先週末、神奈川県横須賀市から乗った京急電鉄の車内広告は、中づりを含めて「柳川雛(ひな)祭りさげもんめぐり」で占められていた。ポスターの隅に記された広告主の名は福岡の西鉄だった

ひな壇の脇につり下げる「さげもん」(鶴や金魚といった縁起物の布細工など)の実物も添えてあった。「九州にはこんなひな飾りもあるんだね」と親子連れの乗客を和ませていた。柳川雛祭りは、あすの「流し雛祭り」で締めくくられる

▼流しびなは各地にそれぞれの形で伝えられ、3月3日か、その数日内に行われる所が多いようだ。わが娘の健やかな成長を願って流したり、園児や小学生が願い事を書き添えて流したり…

▼先週初めの朝のNHKラジオは、江戸期から続く鳥取市の用瀬(もちがせ)の流しびなを紹介していた。旧暦の桃の節句に行われる。今年のその日3月30日には女児が和装で参加し、わらで作った桟俵(さんだわら)に紙びなを乗せて手を合わせた

▼物忌みの行事として伝わり、紙びなをなでて災いを人形(ひとがた)に移して川に流したという(用瀬の「流しびなの館」ホームページから)。重松清さんの直木賞受賞短編小説集「ビタミンF」の「セッちゃん」にも出てくる。いじめに遭った少女の物語。作中で流しびなは「身代わり雛」とも

▼世情を映して時代の川を流れて行く流しびなもあるのだろう。こんな句を添えたくなった。〈流し雛堰(せき)落つるとき立ちにけり〉=2017/04/02付 西日本新聞朝刊=」

 

読んで、柳川近くの出身の母が「さげもん」を作っていたことを思い出しました。貧乏生活でしたからそんなに頻繁に作ってはいなかったでしょう。母の名前は「セッちゃん」こと。セツです。晩年は少しボケましたが90歳を超えていたので当然でしょう。老いてから落ち着いた生活を送れたのが救いですが。

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どじょうの思い出 [自分史]

 

 

新聞にドジョウの専門家の随筆がありました。

 

「ぬるぬるとして細長く、口にヒゲを持つ魚、 ドジョウ。水田や小川に暮らす身近な魚とし て、日本ではよく知られている。私は幼少時
から淡水魚が大好きで、あまりに好き過ぎて
研究者を志し現在に至っているが、最近は特にドジョウの魅力にとりつかれている。ドジョウは大きくはコイの仲間で、コイ目ドジヨウ科に分類される。ドジョウ科は日本列島から
ヨーロッパにかけてのユーラシア大陸に広く分布し、約200種類が知られている。日本

列島には25種類のドジョウが自然分布し、このうち少なくとも2種類は日本固有である。

すなわち、世界のドジョウ科の約1割が日本列島のみに分布していることになる。驚くべ

き種類の多さである。(以下略)」(随筆喫茶  身近なドジョウに刻まれた歴史 中島淳2017128西日本新聞)

 

ドジョウといっても今は見ることもありません。私が見たのも60年前の田舎の田圃ですが、私が小学校に入る頃に農薬が使われることが多くなり、一時期見ることがありませんでした。その前は、ドジョウ受けという竹でつくった籠みたいなものを田圃の排水口のところに設けて捕獲していました。家で食べるというより売っていたように思いますが、ここは確かめないと分かりません。私の記憶というより、きょうだいの話ですと、小さい頃から病弱で、高熱になることが多く、ドジョウが良いということで私の額にのせると「ジュー」と白くなって死んでいったという。本当に効果がある話かは分かりません。そんなことや熱を冷ますために氷で冷やすために3キロぐらいある製氷所に買いに行き、冷蔵庫がないので土間に埋めていました。そんなことをやってくれたきょうだいがいたので今まで生きてこれたのだと思っています。

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テレビ体操12年とその前に [自分史]

 

 

テレビ体操というのがEテレで朝6時25分から10分間あります。脳梗塞のリハビリは週1回通っていましたが、そのほかの日は歩くだけでした。働く日々から毎日が休みの日になり、どうしたものかと思い始めていたころです。朝早く目覚めて偶然知ったのです。それからほぼ毎日続けています。それで、何が良かったということは分かりません。テレビ放送開始が1953年というのですから「テレビ体操」も長いのですね。効果は分かりませんが、健康を意識するのにはいいと思います。ウォーキングは歩いた後の血圧が低下しているのをよく体験していたので効果は分かります。毎日の血圧と歩数は記録しています。時々、血圧が高くなります。ウォーキングしても下がらない日々がありますし、時には頭痛もあります。薬を増やしたりしても変わらないことがあります。ひとつは、心配事があると高くなりますが、それ以外で上がると気になります。どこか血管が狭くなっているのでしょうか。最近は、ふくらはぎと胸のあたりを丁寧にマッサージしています。

 

病とのつきあいは12年の前には高校生になった時です。高校進学時には病気していませんでしたが、就職に有利なように工業高校にと進みました。そこには、先生が進めた普通高校がありました。そのことを思い出したのは元日の新聞からです。

 

女優 黒木躍さん(56)    「矢部線」青春と共に

車窓を流れる山や川、田畑の中の民家。女優の黒木瞳さんは高校時代、のどかな山村風景を眺めながら列車通学した。乗ったのは、
出身地の福岡県八女市黒木町の旧国鉄・黒木駅と、鹿児島線羽犬塚駅(同県筑後市)を結んだ矢部線。終戦間もない194512開業のローカル線だ。 毎朝、同じ中学出身の女生徒4人と一緒になった。4人掛けの座席に座るのは早い者順。羽犬塚の一つ手前前の駅までの約30分、おしゃべりしたり、小説を読んだり。「森の中を走るような 路線。風情があるんですよ」

路線名の通り、矢部村方面への延伸計画があり、黒木さんも幼少時から楽しみ にしていた。「線路はどこまで続くんだろうって。考えるだけでわくわくしました。だが、マイカー普及などで乗客減にあえいだ矢部線は85年に廃止。延伸は 実現しなかった。 いま、帰郷すると、車道となった路線跡がある。「矢部線のテイーゼルカーを観光用に残してくれればよかったのに。少しさびしいで
すね」。愛くるしいオレン
ジ色の車両、後ろの乗客の背中の感触が伝わる薄っぺらい背もたれの座席・・・。青春と共にあった矢部線は、
故郷の風景の象徴として記憶に刻まれている。」

 

この高校には父も通い、兄も姉も卒業生ですが、3男にはカネをかける余裕がなかったのでしよう。矢部線で通ってくるクラスメイトも多かったです。私の学校は終点の羽犬塚駅で降ります。普通高校はひとつ前の「花宗(はなむね)」駅でした。

高校入学してまもなくてんかんとなり、就職も困難な状態になるとは思いもしませんでした。家族には心配をかける少年となりました。 

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筑後弁 [自分史]

 

 

「よさる」は「夜」でなかったか。筑後便の生活から離れて50年余。もうしゃべるのは難しい。「つようしとらんの・・・」は、元気に過ごしてということでは・・・。それを「強く」の変形にしているのは、しっかりと気を強くしていきましょうという励ましか。

 

「『郷土の手形』 方言に温かみ   85

 

大風の吹き過ぎた翌朝叔母がやって来て父と話ていた。「よさるにや、そうにやかぜがごうぐったのうや」。ちんぷんかんぶんの叔母の筑後弁はまるで呪文のようだと私は幼心に思い
つた。叔母は帰り際には決まって父に「つようしとらんの・・・」と言い残した。
父の郷里は福岡県八女郡だった。方言は「郷土の手
形」と言われ、地域社会に
連綿と受け継がれた温かみのある土着の言語と訛りはどこかユーモラスで、気安い親しみを感じた。

筑豊の三井鉱山が閉山し、山口・下関に職を得て移住した私の九州訛りを、例えば「先生」と聞こえるなどと揶揄された。〈船の汽
笛降る海峡の町に住みサ行
音訛るるわれはエトランゼ〉

19933月、三井三池炭鉱のガス爆発事故で福岡地裁は30年経て判決を言い渡した。愚図な裁判だった。「死んだ鉱員たちぁ、 ほんなこつ浮かばれんば
い」。テレビに訴える地元
の声だった。〈裁判のふうし
たらぬるさよ知れちよるたい炭塵爆発ァ鉱山の責く。〉」(20161112日西日本新聞)

 

.筑後弁とは無関係の話ですが、喜べるニュースではない。地域の受け皿がないので・・・。

 

 

「入所障害者1割を地域ヘ厚労省目標

 

厚生労働省は11日、入所施設で集団生活をする障害者約13万人のうち、9%以上に当たる1 万人強が2017年度から4年間で施設を退所し、自宅やグループ ホームなど地域での暮らしに移れるようにする、との目標を定めた。同日開かれた社会保障審議会の部会に示した。
障害者の入所施設では、今年 7月、相模原市で19人が殺害される事件が発生。障害者団体からは、地域移行を進めれば障害者への理解が深まり、同種の事件の再発防止にもつながるとの指摘がある。
障害福祉では、各自治体が3 年ごとに実施計画をつくっており、今回の目標は次回の計画策定に向けた厚労省の基本指針に盛り込む。 このほか、障害のある子どもサポートする児童発達支援七
ンターを、20年度末までに全市町村に1カ所以上設置するとし
た。」(20161112日西日本新聞)

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「おふろうさん」と「おにぎえ」 [自分史]

【エッセイ】

 

「おふろうさん」と「おにぎえ」下川 悦治

 

 

 小学校入学前の言葉の記憶をたどる新聞記事がふたつありました。「おふろうさん」と「おにぎえ」というものです。福岡県南のわが家は、父が一人息子なので、来客は母方の祖母と叔父さんたちか、大叔母が隣り村でしたのでよく寄っていました。病弱だった私は家にいることが多く、いつのまにか聞いていた大人の言葉を記憶しています。不思議だった言葉は「さいふまいり」。財布が参るとはなんぞや。それでも尋ねてみたことはありません。大人になって大宰府の近くに住むことになって、天満宮詣でをいうことを知りました。

「おふろうさん」も記憶に定着しています。新聞のコラムからです。

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 地元で「おふろうさん」と呼ばれて親しまれている福岡県大川市の風浪宮(ふうろうぐう)は、約1800年前に創建された神功皇后ゆかりの神社だ。その初代宮司の阿曇磯良丸(あずみいそらまる)を取り上げた絵本「風浪宮と磯良丸」を地元のNPO法人「海路明(うじあけ)」が出版した。(以下略)2016年10月8日
西日本新聞」

漢字でこんなに書くとは想像もできませんでした。風呂との関係でしか想像できませんでした。

 もうひとつが「おにぎえ」です。 柳川市にある三柱神社秋期大祭「おにぎえ」だということも成人してから知りました。この神社は柳川藩の初代藩主立花宗茂などを祀っています。

神社のホームページでは「三柱神社の秋の大祭で、『大賑わい』の発音がつまって『おにぎえ』と発音されたことからその名が付いたとされます。県の無形民俗文化財に指定されている囃子山車『どろつくどん』や、艶やかな『踊り山』が参道や町内を練り歩き、柳川の街が夜遅くまで『大賑わい』で盛り上がります。」

 

幼い頃、耳にした聞きなれない言葉だけが、記憶が薄れゆく年齢になっても、特別の関係もないのに言葉が長いこと残っているのは何故なのだろうと思ってきました。単に、奇異な感じだけだったのか。言葉には何かを働きかける力のあるのか。遠い記憶がなつかしい時代です。

 

 筑紫野139号より


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後悔の山 [自分史]

 

 

 

104歳の芸術家・篠田桃紅氏は次のように記しています。

 

「神様の領域

 

後悔のない人はいない。

人はパーフェクトだと思ったら

生きられないですよ。空虚になってしまう。

完璧は、人には成しえないし

与えられない神様の領域。

バカは死ななきゃなおらない、

どこか欠陥を持っているのが人。

どんなことをしても

パーフェクトにはなれない。」(『人生は一本の線』) 

 

 

人生でいくつかチャレンジできたことはありますが、あとは語ることなど赤面して深なおししたい幼稚な言動を繰り返してきました。篠田氏が言うようにパーフェクトを目指したわけでもなく、少しでも良ければと思ったことや、思ったことをつい口を滑らし、人のやりたがらないことを安直に引き受けて泣き言を言ったりしてきました。「バカは死ななきゃなおらない、」ということを時々思い出します。毎日だと滅入りますから。

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ナマズを食べた記憶? [自分史]

 

 

今年の盆は友人の訃報でしんみりと考えたりする時間で過ぎていきました。私よりいくつか若い人だったこともあり、己の齢を感じることもあります。そして、何の変化もなく過ぎてゆく一日でもありました。右腕の痛みが強くなったりはしましたが・・・。

中島京子著『花桃実桃』を読みました。アパートの管理人を兼ねたオーナーが主人公で、各部屋の人たちが登場してきます。こんな住人ばかりだったら音を上げそうなものですが、小説としては読みやすく、多彩な描き方がうまい作家だと思う。最初に読んだのは『かたづの』という女性大名の話でした。歴史的にも面白いし、小説としても読みやすいものでした。読みやすいことが気になりだしたのは、何時ごろからでしょうか。『長いお別れ』も良かったが『小さいおうち』は私には難しかった。

 

こんな投書がありました。

 

「氏神様助けたナマズ食さず  90

 

 今年はとりわけ、暑い日が続いています。ウナギが高いので、その代わりとして、なまずのことがテレビに流れていました。私の生家は田舎で、昔は川の整備もされておらず、少しの雨で大水となっていました。
田舎ですから、かまどは
土間にありました。大水に
なりそうだと、父は夜中でもご飯を炊けと言っていました。土間に水が流れ込んだら、大変です。夜中の2 時に、ご飯を炊いたこともあります。村には、氏神様が大水でも流され、それをナマズが助けたという言い伝えがあります。氏神様には、ナマズの額が飾ってありました。だから、私の集落では、ナ
マズは食べません。食べようとも思いません。今でも「御田植祭」の行
事があります。ナマズから小さいころを思い出しまし
た。」(2016813西日本新聞

 

私が育った田舎はクリークばかりでしたので、なまずやウナギもいました。ナマズはひげが特徴ですが、食べたというはっきりした記憶がありません。家族が食べたことは記憶に残っているように思いますが。ウナギは父がさばいていた姿を記憶していますので、食べたのだと思います。食べない習慣もあるのだという日本人の思いにも共感できますが。

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