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コーヒールンバ [自分史]

 

 

西田佐知子さんの「コーヒールンバ」は1961年だという。

 

「(ひととき)コーヒールンバの記憶 201844日朝日新聞

 夫が入院していた病院のロビーに、コーヒーの自販機があった。お金を入れてボタンを押すと1杯ずつ豆をひいてくれるタイプのもので、「抽出中」のランプがついている間、軽快な「コーヒールンバ」の曲が流れていた。

 毎朝出勤前に病院に寄り、誰もいない待合室の長椅子に座ってコーヒールンバをぼんやりと聴いた。病室を訪れると、コーヒー好きの夫はうれしそうに迎えてくれたが、機嫌よくコーヒーを飲める日はそう続かず、次第につらそうな顔の日が多くなった。病気がわかってから天に召されるまで、たった4カ月だった。

 それからもう12年経った。2年前、南米の民族音楽「フォルクローレ」に出会い、ケーナという笛に夢中になった。そのグループで、コーヒールンバを演奏することになった。音楽は記憶を呼び覚まし、遠くに押しやっていたロビーの長椅子のひんやりとした感じや、病室に向かう時の気持ちが一つ一つよみがえる。(以下略)(主婦 62歳)」

 

1961年高校2年。この年には赤木圭一郎さんが亡くなった。絶頂期の映画俳優だった。私は、望みなく鬱屈した日々を過ごしていました。「コーヒールンバ」の歌声に救われたように記憶しています。

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名島橋の恩 [自分史]

 

 

1963年。田舎から都会の福岡市に住むために姉夫婦の家に身を寄せました。鈍感な私はてんかん発作があることの影響より都会の生活への不安が大きかった。家族はもちろんてんかんで働くことへの危惧が強かったと思う。会社の寮が空いていないこともあり、居候の身になりました。田舎からふとん一式送ってもらいました。姉夫婦の社宅は多々良川沿いにありました。それから半年間、名島橋を見ながら過ごしました。夕焼けの光景が残っています。

 

「名島橋 国有形文化財登録へ 優美な装飾評価 [福岡県]

 文化審議会は9日、福岡市東区の名島と箱崎を結び、多々良川の河口付近に架かる国道3号の「名島橋」など28都府県196件の建造物を登録有形文化財にするよう、林芳正文部科学相に答申した。

 名島橋は長さ約204メートル、幅約25メートル。1933年完成の鉄筋コンクリート造りで、アーチが七つ連続し、バルコニーや親柱にある花こう岩の半球など、優美な装飾や意匠が評価された。

 登録に向けて、橋の調査をした国立文化財機構東京文化財研究所の北河大次郎・近代文化遺産研究室長によると、名島橋は30年に開港した名島水上飛行場へのアクセス改善や、市域拡張が進む市の新たな玄関口としての役割が期待されていた。都市化が進む近代福岡の発展を象徴する橋という。(以下略)=2018/03/10付 西日本新聞朝刊=」

  

狭い社宅に転がり込んだ義弟を受け入れてくれた恩をかみしめています。

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「味のタウン」があった頃 [自分史]

 

 

「後漢鏡 完形で出土

仲島遺跡 中国との交易示す

 福岡市埋蔵文化財課は5日、博多区井相田の仲島遺跡で中国・後漢時代の銅鏡が(後漢鏡)が完全な形で見つかったと発表した。1世紀末~2世紀前半に作られたとみられる。弥生時代後期の福岡平野(奴国領域)で中国鏡が完形で出土するのは極めて珍しい。中国との交易を示すという。銅鏡は4月、弥生時代の集落跡の一画で、2世紀中頃の土器と一緒に出土した。内行花文鏡と呼ばれる様式で直径113センチ。通常、-銅鏡はさびた状態で発見されるが、水気のある土に守られて酸化せず保存状態が良好で鏡面に物が映る。中央にコウモリのような文様と、子孫繁栄を願う文句「長宜子孫」の4文字が施されている。奴国の有力者 が所有したとみられる(以下略)」(2017126日西日本新聞)

 

当時の西鉄福岡駅にバスセンターができたのが1961年の師走だという。私が就職したころにはあったのだという。

 

「天神大牟田線物語 駅一体のバスセンター

新しい福岡駅の高架下にはバス発着所が併設され、仮駅を撤去した後の196112月に開業しました。鉄道駅と 一体構造のパスターミナルは 国内初で、因幡通り(かつて の薬院堀端、現在のきらめき 通り)の南側に新設した通称「裏駅」と接続しました。福岡市から福岡県内や北部九州の主要都市に向かう中長距離パスは、大部分が旧博多駅前(現在の祇園町交差点南側)50年に整備された博多発着所を起点、終点にしていましたが、全ての西鉄便(3 82便)が福岡駅高架下から 出発することになりました。 法令では専用自動車ターミナ ルと呼ばれます。 パスターミナルは「福岡バスセンター」と名付けられました。単なるターミナル(端末)ではなく「パス運行やサービスのセンター(中心)にする」という意思が込められています。福岡パスセンターは空間を有効活用するため、階段式の乗降所6台分を設置、待合所、 売店、さらに地下に20店舗の 食堂街「味のタウン」をオープンさせ国鉄駅に劣らない 長距離利用者へのサービスを 提供しました。(以下略)」(同前)

 

田舎から出てきたときは、土曜日は半日出勤の「半ドン」でした。多くの人たちがマージャンに連れ立っていく時代でした。行くあてもない私は、地下の「味のタウン」のうどん屋さんが2軒あったと思いますが、そこで昼食をして、街をぶらぶらしていることが多かった。思い出すたびに切なくなります。

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「若い東京タワー」 [自分史]

 

 

「漫画 君たちはどう生きるか」でおじさんからコペル君の手紙からです。

「英語や,幾何や、代数なら、僕でも教えることができる。しかし、人間が集まってこの世の中をつくり、その中で一人一人が、それぞれの一生をしょって生きてゆくというこことにどれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると僕はもう君に教えることはない」と語りかけます。

 

東京タワーは地方に住んでいるとあこがれでしたが、ゆっくり見物することなく、モノレールや電車から眺めるものでした。それは、その時の気分で異なった風景でした。仕事ではそんなに変化はありませんが、個人的に所属する団体の会議、多くは土日開催で、日曜日の夜眺めた東京タワーは思い出深いものがあります。

 

「(ひととき)教室から見た東京タワー 2018129日朝日新聞

 1970年5月。大学入学から1カ月すぎた教室の中。私の目は黒板の前に立つ教授の方ではなく、開け放たれた窓の外を見つめていた。白いカーテンがゆらぐその向こうに、東京タワーを見ることができた。

 地方から上京した人間にとって、東京タワーはあこがれの象徴だった。テレビの映像や写真ではなく自分の目で、それも大学の教室から見ることができるなんて、夢のような光景だった。

 あれから50年近くの時が流れた。大学はきれいな高層の建物に変わった。きっと冷暖房が完備され、窓が開かれることはほとんどないだろう。大学の周りも高層ビルが立ち並び、あのころのように窓から東京タワーを見ることはできないかもしれない。でも私は、ゆらいだカーテンの向こうに見えた東京タワーを、いまも鮮明に思い出す。

 東京タワーは、今年で60周年を迎えるという。そうか、18歳の私が教室から見たのは「若いタワー」だったんだな、とふと思う。(以下略) (主婦 66歳)」

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オーバーがあった頃 [自分史]

 

 

オーバーというのがありましたね。と言ってしまいました。

 

「オーバー  山崎ハコ

最近時々思う。冬の「オーバー」って、どこに行ったんだろう。生地の名前がわからなくて 友人と「習字のときに下敷きにするフェルトの様なやつ。昔の毛布を厚くした様なオーバーだよ。映画で、笠智衆さんが着てたオーバー。最近見ないねェ(以下略)」(2018122日西日本新聞)

 

オーバーが愛用された時代の父だったのでしょうか。

 

「西日本詩時評  岡田哲也

友人が、父の生誕百年祭をしたと喜んでいました。自分の父の生誕祭ですかと、私は一瞬鼻白みましたが、ハッと気付きました。彼の父は昭和十九年出征し、同年、硫黄島戦線で玉砕したのです。二六歳と九カ月の命でした。「勝紘」といういかにも往時らしい名の彼が見送ったのが、生後五カ月。むろん覚えているわけがありません。彼にとって父というのは、法事と周囲の人々の追一憶の中で生き続けてきた存在だったかもしれません。百歳近い母も元気で、内輪の宴もはずみましたと、彼は語りました。私は、それは良かった、硫黄島はインパールなどのていたらくに比べ日本軍が最もしぶとく戦った所でしたからねと、わけのわからない相鎚を打つばかりでした。「父は永遠に悲壮である」これは萩原朔太郎さんの散文詩「父」の一行ですが、父というのは私のようなロクデナシの男にとっても、シッカリ者にとってもなかなか厄介な代物です。(以下略)」(同前)

 

生誕祭とは思いがこもっていますね。昭和19年、敗色濃厚になって兵隊としては年齢が高い私の父も召集される少し前に私が生まれたそうです。父は軍隊生活に嫌悪感を持ちながら戦後を過ごしていました。父もまたオーバーで通勤していました。

 

 

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「みんなのうた」が始まった頃 [自分史]

 

 

朝、4時半前のNHK「みんなのうた」を見ることがあります。いつも物悲しい思いがしてきますので、好んで見ているつもりはありません。なぜ、そういう気持ちになるのかと言うとよく分かりません。1961年(昭和36年)の放送開始というから高校に入学した年ですし、長い闘病生活が始まった年でもあります。既に遅いながらもテレビはありました。

 

そんな歴史を感じさせるものとして広辞苑があります。わが家の紙の広辞苑は1991年発行の第4版です。新しいものは電子辞書を使っています。今は広辞苑の権威はどうなんでしょうか。広辞苑の源流は昭和の始まりと同じだそうなので1926年頃。約90年の歴史ということになります。

 

「広辞苑が10年ぶりに改訂へ 「安全神話」など約1万語を追加

20171024日西日本新聞

 岩波書店は24日、国語辞典「広辞苑」の改訂版(第7版)を来年1月12日に刊行すると東京都内で発表した。現行の第6版は2008年1月の刊行で、10年ぶりの改訂となる。

 「安全神話」「デトックス」「ブラック企業」「がっつり」など、第6版の刊行後に定着したと考えられる新語約1万語を追加し、総項目数は約25万となった。3216ページ。

 普通版は9720円で、2分冊の机上版(1万5120円)も発行する。それぞれ来年6月30日までの割引価格も設定する。」

 

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矢部川で泳いだ頃 [自分史]

 

 

「矢部川治水史遊んで学ぶ

改修に功績の柳川藩士 田尻惣馬

たらいに乗り激流下り気分

九州芸文館筑後市」(2017721日西日本新聞)

という記事を読みました。甦った記憶があります。小学生時代に目の前にあるクリークで泳ぐのが禁止されました。当時の水田に農薬が本格的に使われ始め人体にも影響があるということでしょう。いつでもクリークに飛び込んで泳げる環境がなくなりました。それでも夏休みは暇です。そこで少し離れた矢部川まで泳ぎにいきました。自転車だったと思いますが、帰りには汗をかき、泳ぎの楽しみも半減しました。その頃には、牛馬が農家から消えた時期でもあります。

 

記事によれば

「筑後地方を代表する河川 の一つである矢部川。普段は静かな清流だが、5年前の九州北部豪雨など、しばしば氾濫を起こす暴れ川でもあった。江戸時代、その矢部川の治水に尽力したのが柳川藩士、田尻惣馬(16781760)だ。その働きを題材にしたアートイベント「CHIKUGOARTPOT201 7そうまのたらい展」が、筑後市津島の九州芸文館で開かれている。作品を楽しみながら、惣馬の功績と矢部川の恵みに思いをはせてみた。(床波昌雄)

(略)

展示を見て、惣馬の足跡をたどってみたくなった。九州芸文館から約75キロ上流にある八女市立花町の千間土居公園を訪ねた。1695(元禄8)年、滋馬 が父とともに1300 (23キロ)にわたるクスノキ林の堤防「千間土居」 を築いた場所だ。 矢部川の水利は古くから 対岸にある久留米藩との争いの元だった。惣馬は久留米藩から苦情が出ないよ う、工事を短期間で終わらせるため、動員した農民を一切休ませなかったことか ら「鬼奉行」と恐れられた という。「木六、竹八、ヨシ九月、惣馬の首は今が切りどき」。恨んだ農民は

こう歌ったと伝わる。当時の農民が苦労して植えたクスノキ林は300年「を経た今も地域を守り続け、川の水は流域の広大な田畑を潤している。九州が再び豪雨に見舞われた今夏九地域のためにと、増水の川をはんぎりで下った「鬼」の姿を思い浮かべた。

 

そーまのたらい展

827日まで、筑後市津島 の九州芸文館。旧八女郡役所(八女市)やうなぎの寝床()、ホテルM E I J I K A N J (筑 後市)などのサテライト会場もあり、羽犬の手押 し車を押しながら街をめぐり、スタンプを集める とオリジナルミニカーがもらえる。いずれの会場 も入場無料。86日には田尻惣馬ゆかりの地を 訪ねるパスツアーを開く(大人3000円、高校生以下,1000) 九州芸文館=0942 (52) 64350

 

会場は筑後船小屋駅そばで新幹線・在来線でも。隣にはホークスのファーム施設があります。

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馬が身近にいたころ [自分史]

 

 

60年前ぐらいの農家では馬小屋が農家にはありました。

 

「出水 村田喜代子

今ちょうど連載小説で、太平 洋戦争当時の女性たちのことを 書いていて、そこに東北の農村 の馬が出てくる。農耕馬だ。一生を飼い主の言うことを聞いて、身を粉にして労役に就く馬たちは、家の中で人間の息子たちと変わらなかった。 馬を見るとき、その家の主婦 を見ると分かる、といわれた。 人間の子どもと同じで、馬は主婦が養育した。情愛深い賢い人 聞の母親の手で育てられた馬 は、少し違うのだろうか。馬に も生まれついての性格があるか ら、荒馬などはずいぶん大変だ ったろう。 一人間の子どもが一人二人でさえ、親は心労が絶えない。物を言わない牛や馬にはまた別の苦労があるはずだ。それに人間の子どもは親の自然な情愛がともなうけれど、家畜へは情愛と共に、感謝がある。昼寝している犬や猫でも餌は与えられる。牛馬たちは餌を貰うだけで、人に奉仕する。人間の子は成長すると出て行くか、家畜は自ら飼い主のそばにいる。(一部引用)」(2017713日西日本新聞)

 

農薬が多用される時代になるころ、消えていったように思います。ですが、馬についての記憶は悲惨な場面ばかりです。農家の火災で逃げ出した馬が近づいてきたときの怖さ、1953年(昭和28)の大水害時に濁流に流される馬がいました。可哀想な思いでしかありません。今回の水害ではどんなことがあったのでしょうか。

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新聞社との関りで [自分史]

 

 

新聞の投稿を読んで記憶が甦りました。しかし、確かな記憶でもありません。1958年新聞社の伝書鳩廃止といえば昭和33年。私の記憶では西日本新聞見学したのは小学生なので昭和32年以前。何か暗い感じの印刷工場などと鳩小屋を見たように思います。修学旅行でなく社会科見学だったように思います。

 

「本社見学の際ハト小屋見た  78

朝食後、新聞を聞く。「春秋」で伝書バトが新聞社に導入されるに至った話を興味深く読んだ。「西日本新聞創刊140周年特集」の中で「19584月に『鳩班』廃止」の文字を見て、 気になっていたのだ。 小5の時、福岡への日帰り修学旅行で西日本新聞社の見学があった。その時、 屋上でハト小屋を見たのを覚えている。そう、まだ伝書バトがいたのだ。 私にとっては、物心ついてからずっと西日本新聞o42810日に福岡日日新 聞と九州日報が合併して西 日本新聞となった事情もよく分かった。前夜遅くまであったプ口野球の試合結果が午前3時ごろにわが家に配達されてくる新聞に載っている。驚く。情報技術の発達は私の想像をはるかに超えている。ネットで情報を得ることのない私には、新聞が貴重な情報源。単に読むだけでなく、人工知能では不可能な記者の「伝えたい思い」もしっかり受け止めたい。」(2017525日西日本新聞)

 

新聞のコラムからです。鳩がいなくなり、原稿用紙も消えました。社会の動きが激しい半世紀だと思います。棚から使わずにしまわれていた原稿用紙がたくさん出てきました。製薬会社とか、出版社のものですが・・・。

 

「デスク日記

 休日の昼下がり、原稿用紙を買いに出掛けた。中学生になった娘が作文を書いて提出するという。どこでも買えると気軽にコンビニへ。文具コーナーに履歴書やノートはあるが、探し物は置いてない。続けて3店、さらにスーパーも空振り。足を延ばした文具店は姿を消していた。

 私が新聞社に入った頃、原稿は原稿用紙に手書きだった。デスクに出した記事は、赤ペンで真っ赤になった。それから30年近く、鉛筆やペンはワープロに代わり、今やパソコン。活字の報道機関ですら、升目の紙は見掛けない。

 小学校近くを通ると、目に入ったのが少々古びた文具店。あった。ようやくその店で見つけた。ネット通販では手軽に購入でき、作家もパソコンで執筆しメールで送るのが当たり前の時代。店長に感謝を伝えると「原稿用紙は前よりも売れない。でも専門店だから置いとかんとね」と言ってくれた。予期せぬ収穫に胸が熱くなった。 (永野稔一)=2017/05/17付 西日本新聞朝刊=」

 

 

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与田準一氏を思い出した [自分史]

 

 

まさかこんな人脈で与田準一氏が出てくるとは・・・。

 

「近況往来  児童文学作家 岩崎京子さん

 

淡い藍色の入った久留米絣のブラウスコートを羽織りローヒールの靴でトー
クショーの舞台にさっそう と現れた。代表作「かさこじぞう」など多数の作品を'送り出してきた児童文学のペテランも現在、94歳。

父は筑後の人間で、私 が小学生のころ修身の教科書に(久留米絣の祖の)井上伝が載っているのをめざとく見つけて大喜びしましてね。何かと筑後を娘に宣伝して爆弾三勇士も自慢。この辺に来ると懐かしい」長年の友人、絵本作家の長野ヒデ子さんを対談相手に先月、福岡県大木町で開かれたイベントでは筑後地方との関わりや創作についておっとりとした口調でざっくばらんに語った。(略)

筑後地方とは縁が深い。 自身は東京生まれだが、父の故郷が旧三井郡大城村 (現久留米市)。児童文学の世界で師事したのも旧瀬高町出身の与田準一氏。 「きちんと日本語の勉強 をしなさいと言われ、ご自宅の玄関に原稿を置いてきては翌週取りに行くといった具合でね」文学は人間を書くものだ。もっと窓を開けて世間をみなさい、とそれは怖い先生だった」

井上伝の半生を描いた小説「久留米がすりのうた」など各地の民話や伝統文化を取材し、すがすがしい筆致の作品で定評がある。目下、
福岡県北部の芦屋ゆかりの話を素材にした物語に取り組む。旧東海道沿いにあった横浜の腰掛け茶屋が古い伊万里焼を大事に使ってい

なたのを不思議に思って話を聞き、芦屋との縁を知った。 「幕末に芦屋の商人が茶わん船を仕立てて売りに来 ていたそうです。ご飯炊き
で少年も乗り込んで。その 少年が主人公  

ね」と水を向けると、すかさず「東京じゃ 詳しい資料がなかなかなくて、芦屋に行って取材しないとね」。ひょうひょうと言つてのけた。(神屋由紀子)」( 201745日西日本新聞)

 

岩崎京子氏のことは名前は知っていますが、詳しくは知りませんでした。与田準一氏は若い頃、瀬高町の隣の当時の八女郡水田村の下妻小学校の教員をされたということで作詞されたと聞きました。作曲はかの有名な中田喜直氏です。校歌ができたのが1953年。この年には筑後地区の大洪水があり、それでたまった土砂で「築山」ができたとHPで記されています。そこで築山に駆け上った記憶がよみがえりました。

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