地禄神社のことを知らなかった [歴史]
私の散歩コースには「地禄神社」と「猿田彦」の石碑が多い。なかでも、地禄神社のことは良く分からないまま調べもしなかったのですが、西日本新聞のコラムで次のように書かれていました。
「風車 自律心という保証
桜が散ってツツジ が咲き始めると、農家は早苗の準備に忙しくなる。豊作を祈る新春の予祝行事は、既に終えている所も多いが、本格的な農作業を前に、用水路からの取水口で水口祭りなどを行う農家もある。水口に花を供えたり、酒を注いだりする。 農業の神は地域によって異なるが、福岡都市圏とその周辺では、波邇夜須神(はにやす)をまつる地禄神社が多い。この神は、日本書紀では埴安(はにやす)神と書かれ、土の神様である。伊邪那美命(いざなぎのみこと)が火の神を産んで病みふせったさい、その糞に生じた。出自は上品とはいえないが、福岡都市圏域では辺社が主祭神にしており、祭祀の地域的な特徴を見せている。
その分布を地図に落とすと、水田稲作の板付遺跡や甕棺の集団墓地である金隈遺跡、須恵器の一大生産地 であった牛頸窯跡群など、年代は異なるものの、土と縁の深い遺跡が周辺に現れてくる。波邇夜須神は、こうした遺跡と無縁でなかったようだ農民や工人は神を祭ることで、過ちを避けようとしたのだろう。「作業がうまくいきますように」。祈りには、作業を誤らない自律心という 保証が求められた。老農やベテラン職人のなんともいえぬ風貌は、作業を通じて積み重ねてきた自律心がつくりだしているのだと思う。」以下略 (2012年4月20日西日本新聞)
私が住むところは、牛頸窯跡群周辺です。地禄神社はどこも質素です。どのように今管理されているか分かりませんが、農家の人たちによって守られているのでしょう。今日もたまたま散歩していて、工事中で迂回したところに地禄神社がありました。結構大きかったのですが・・・。
合格発表・大宰府のこと [歴史]
合格発表・大宰府のこと
永六輔さんがラジオで話しています。通夜や災害時に笑っている人もいますと話しています。その力について語っているのだと思いますが、博多の昔の通夜では大酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしたという話を聞きました。その趣旨は「この世のつらいこととお別れできた」のだからそのお祝いだということだったように思います。そこにも、死者に対するねぎらいの心があるように思います。切ないことではありますが。
つらいことつながりでは、今日は公立高校の合格発表日。太宰府市内を歩いていると受験生らしき人と家族が沢山戻ってきています。携帯で話している人も多いです。でも、合格した人ばかりではないでしょう。でも、これ自体は大したことではありませんが、今はつらいと思います。
話は変わりますが、昨晩、NHKで札幌市での姉妹の孤立死についての番組がありました。先行してTBS「報道特集」とさして変わらない内容でした。個人情報保護の壁があるとの問題提起でしたが、それだけなのかと思いました。最近の孤立死4件のうち3件が障害者が巻き込まれています。それと、単身世帯でないことが大きな特徴だと思います。そこからの切り込みが必要だと思ったのですが・・。
太宰府市には太宰府天満宮がありますが、朝廷の役所を表示する場合は大宰府と書きます。最初は、日本には3か所に大宰府があったそうですが、大宝律令で他の2か所は廃止になり、以降、大宰府は筑紫のことを指すようになっているそうです。当初は今の天神の海寄りに那の津という地名が残っていますが、そこに役所はありました。その後、朝倉市に朝廷が移りますが、斉明天皇の崩御の後、朝廷も元に戻ります。白村江の闘いに敗れて、防衛線を海岸から内陸部に移す必要から今の太宰府に移されたそうです。
水城
近代化の中で輝いた巨人 [歴史]
近代化の中で輝いた巨人
寒さにふるえています。福岡の寒さですので、雪が積もる訳ではありませんが、風が冷たいです。
Eテレの「日本人は何を考えてきたのか」という番組で、田中正造と南方熊楠を取り上げていました。公害運動の田中と神社合祀による森林破壊と闘った南方の存在は現在にも通じますし、二人にも共通するものがあるそうです。足尾銅山は精錬のために木を伐採し、鉱毒で緑が消えたという。神社合祀で森林伐採が進んだことに抗した南方と通ずるものがあります。銅山の近くの村は、170人が住んでいましたが、110年前に廃村になったそうです。明治10年に採掘開始し、坑道は1200キロ・東京―博多間の距離に匹敵します。それは、富国強兵の資源になり、外貨の獲得にも使われたそうです。この公害について、田中は当時の憲法の民の権利を侵害するとしたそうです。胎児の被害もあり、幼児の死亡率も高い状態が出てきたのですが、学者は銅との因果関係はなく、少量の銅は人間に良いのだと述べたという。それを聞いて気づいたのですが、昨年の原発でも、少量の放射能は人間には良いのだと発言した学者がいましたね。学者の立場の大切さを感じました。
足尾の鉱毒は水俣病と相似形です。民と歩いた二人の巨人のことを少し知りました。南方は、てんかんだったという本がありますが、その生き方に教えられました。
大宰府の客館跡を見る [歴史]
子どものテレビ離れが進んでいるそうです。それはケイタイの影響です。ケイタイの所有率が高校生で93%。中学生で58%だそうで、昔のゲーム機に近いのでしょうが、テレビに対する影響は強いですね。
それから、俳優の入川保則さんが昨日亡くなられたという。末期がんで延命治療を拒否し、葬式の準備までしていたそうです。なかなかできるものではありませんね。
昨日は大宰府の客館跡地の現地説明会に行ってきました。寒風の中で沢山の人たちが来ていて、マスコミのカメラも多かったです。あまりの寒さもあって話を聞き終わることなく退散しました。
客館は福岡市中央区に鴻臚館があり、外国からの賓客をもてなす場です。今回、発掘されたのは大宰府政庁という役所があったところから南に伸びる朱雀大路というメインストリートのそばです。
佐波理(さはり)と呼ばれる青銅器なども展示されていました。
建物柱
佐波理
歴史の断面 [歴史]
歴史の断面
散歩を兼ねて太宰府の展示館に寄ってみました。近くの西鉄操車場跡地の発掘で外国の賓客などが宿泊する「客館」の跡地だと断定されました。そこでの発掘の一部も展示されているとの報道がありました。政庁跡は紅葉が深まっていました。
日本の有名男性俳優が韓国でサインを求められ「こうだくみ」とサインしたのが公開され、韓国人差別ではないかとされていて、俳優が弁解したという。同じ日に、従軍慰安婦の碑が日本大使館前に設置されたという。俳優がいくら弁解しようが隣人との関係の歴史を知らないとこんなことも出てきます。映画やテレビドラマで近くなっているので、それだけ気軽さのあるのでしょうが、考えさせられる出来事でした。
歴史のことでもうひとつ気になったこと、瀬戸内寂聴さんの連載があり、平塚 らいてうの有名な『青鞜』の言葉を紹介しています。
「元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して――
元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。 偖(さ)てこゝに「青鞜(せいたふ)」は初声(うぶごゑ)を上げた。 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。 私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。」
「らいてう」はペンネームだそうですが、「らいてう」が女性解放を叫びながら、『青鞜』発刊の年に大逆事件で処刑されたことに関心を示さなかったことを指摘しています。個々の様々な認識の範囲として興味深く読みました。
本の紹介 [歴史]
太宰府市在住の元高校教諭で作家の観世広さん(74)が「ものがたり太宰府の歴史」(海鳥社)を出版した。読みやすい対話形式で、太宰府を中心に古代から現代までの通史を記述している。
盆に田舎に帰るのは [歴史]
戦後史の転換点は1960年ではないかと民俗学者宮本常一氏は述べています。それまでは土着の農民が主体であって、1960年まで戦前の歴史はつながっていたという。その頃から、田舎から都会に流れていたものが、都会から田舎に送られるようになったという。日本人は土着していくことで生きてきた。そこで、都会でも小さな一戸建て
に執心してきたが、団地の出現で土地から切り離され始めるのが1960年だというのです。住宅公団が設立されたのが1955年ですから、時代的には合うのではないかと思います。団地にいても、やはり土地に執着してマイホーム獲得に力を殺いできたのではないかというのです。それは、農村の住まい方の延長だという。
民俗学的にはそうなるのかもしれませんが、経済学的には「高度に発達した資本主義」への入り口だったといえるのかもしれません。「経済白書」が「もはや戦後ではない」としたのが1956年です。
朝倉宮・2ヶ月の都はどこに [歴史]
私が住んでいる地域には水城というのがあります。これは、日本が支援していた百済が滅ぼされて、前線基地大宰府政庁を守るための堤だと言われています。大野城市から佐賀県基山の基肄城まで続いています。今は宅地開発で相当失われていますが。
百済が滅ぼされたときに再建に立ち上がった斉明天皇は661年に福岡県の朝倉で執務開始しますが、7月に崩御し、2ヶ月の都になったと言われています。朝倉と言う地名はありますが、その史跡は発見されていませんので、どこにあったのか分からないとされています。
万葉集の歌碑と桜 [歴史]
福岡県太宰府市は「万葉の里」だ。奈良時代、万葉歌人の大伴旅人や山上憶良らが、この地で多くの歌を詠み、万葉集に残っている。約4500首のうち九州関連が約350首あり、太宰府にちなむ歌は約250首とされる。市民グループ「大宰府万葉会」は市内に歌碑を建てたり、歌碑巡りガイドをしたりしてPR活動に励んでいる。
会の招きで、たびたび太宰府を訪れる奈良女子大の坂本信幸名誉教授(古代国文学)は「会の活動は若い世代が古典に親しむきっかけになる」と評価。大学で国文学科の数が減少傾向にあり、研究者が育ちにくい状況の中、市民レベルでの古典普及活動に期待を寄せている。
「恋の歌は若い女性の、子どもを思う歌は母親の心に響きます」と坂本名誉教授。太宰府市内には27基の歌碑が点在する。早春の古都を散策しながら、お気に入りの歌を見つけてみませんか。 (三重野)
=2011/03/01付 西日本新聞朝刊=
今日から3月ですね。月末には福岡では桜が咲くと思います。徒歩で10分程度の太宰府市の公園には万葉の歌碑が建てられいます。いつも散歩する人たちが絶えませんがお年寄りはもっと暖かくならないと見ませんね、それでも3月ですから、もうすぐ公園の桜が気持ちを暖めてくれると思います。
朝廷が筑紫にあった [歴史]
今朝はよく冷えました。
西日本新聞朝刊に斉明天皇の話題が二つありました。ひとつは陵墓の話ですね。宮内庁は変更しないそうですが、陵墓の調査を認めないと何も解明されませんね。もうひとつが、661年5月に斉明天皇がつくった「朝倉橘広庭宮」(朝倉宮)という朝廷です。ただ、2ヶ月で廃止されました。その場所の話題です。通常は「朝倉」という地名が残っているので、そこが通説になっていますが、史跡は見つかっていません。そこで、九州国立博物館の赤司善彦氏が後の大宰府政庁跡地にあったと主張しているそうです。
朝倉宮は「女帝・斉明天皇が661 年に造営した朝倉橘広庭宮」したものです。斉明天皇は中大兄皇子(天智天皇)の母親です。「前年に朝鮮半島で、日本と関係の深かった百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされたため、百済復興の救援軍派遣の拠点として大和から都を移した。」ものですが、天皇が亡くなり短命の朝廷になったというものです。大宰府が後に「遠の朝廷」と呼ばれますが、事実とすれば新たな歴史発掘になります。






