So-net無料ブログ作成

縄文の話題 [歴史]

 

 

先日、福岡市内に出かけた帰りに書店に寄りました。『死ぬまで歩くにはスクワットだけすればいい』を探しました。簡単に見つかりました。入り口には健康関連本が山積みです。この本もたくさん積んでありました。テレビの力かも。毎日歩いているのですが、ここ2カ月ほど歩く力の低下を感じていましたら、筋肉量の低下が影響するという。定められた方法でのスクワットをすれば筋肉量が回復するという。

 

今日の話題は縄文時代。

 

「原点としての縄文

新たなモデル、増す存在感  古家嘉章

日本列島のあちこちで、 現代の私たちのアイデンティーを縄文時代の文化と繋げる企てが目につく。その「私たち」には、様々なレベルがある。「日本人」というナショナルなレベ

ル、「東北人」や「津軽海峡人」や「八ヶ岳山麓人」や「信濃川流域人」といったリージョナル(地方的)なレベル、「茅野市民」や「三内丸山人」といったローカルなレベルまで、「私 たち」は入れ子状になって おり、「私たちの縄文文化」 が、それぞれに対応する地 元の縄文遺跡・遺物を活用 して構築される。現在の行 政単位が縄文時代の文化的単位と一致するわけではないし、現住民の祖先が縄文時代から何千年も同じ土地に住んできたと考えるのも現実味を欠く。つまり現住民を「地元の縄文人」と直結するのは無理がある。そ れでも、地元の縄文遺跡や 縄文人と繋がっていると感じたい、この願望こそが「縄文ルネサンス」の核にある。(以下略)」(201838日西日本新聞)

 

九州南部で縄文遺跡が出てこなかったが、姶良カルデラ噴火で隠れてしまっていたという。こんなことが起こる地域に原発というのはどういうものか。

また、次のような話もありました。

 

『縄文の思想』(瀬川拓郎)によれば

「・縄文時代のイレズミは、成人儀礼や通過儀礼として男性も女性もおこなっていた。しかし、『魏志倭人伝』 (三世紀)では男はみな顔や体にイレズミおこなっているとあり、弥生時代には男性の習俗になった。

 

・さらに森浩一は、古代の南九州で狩猟漁携を中心に農耕も営み、王権から異民族的集団とみなされていた隼人のイレズミにも注目しています(森一九九三)

 

イレズミは古代文化の一つだったという。いつ頃、一般的でなくなったのでしょうか

002.JPG

 


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

3.11は繰り返された [歴史]

 

 

伊丹十三賞に磯田道史氏が選ばれたという。映画にもなった「無私の日本人」の他「江戸の家計簿」などもいつものように読みやすく工夫されていました。最近読んだ『日本史の内幕』

には、こんなくだりがありました。歴史から学ぶ必要性を示唆していると思いました。

 

 

「熊本城サグラダ・ファミリア計画

熊本で大地震が起きた。一報をきいた時、私は「やられた」と思った。悔しく思ったのには理由がある。約四OO年前にも慶長三陸地震といって東北に大津波がきたことがあった。この四OO年前の東日本大震災のあと最初に大地震が襲ったのが「熊本」であった。1611

年に慶長三陸地震がきたあと八年後に肥後八代地震(161914年後に肥後熊本地震(1625)がきた。前回は8年後、今回は5年後であったが、まさかこんなに忠実に東北震災のあとに熊本を地震が襲うとは思ってもみなかった」

 

006.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「歴史は現代の鏡」 [歴史]

 

 

歴史は作られるというが、創られるものかもしれません。最近読んだ本で『不死身の特攻兵』というのがあり、特攻兵として9度出撃し、生還したという。特攻なのだから死んだことになっているとして、何度も突入を命じられ帰ってくるので殺害計画が持ち上がり、家族にも戦死したと伝えられます。本人の言い分は爆弾を落として沈めればいいというものだったようです。詳しくは一読ください。特攻を支えた理念が「神風」その由来の蒙古襲来について次のような史実があるという。

 

「近況往来 「蒙古襲来と神風」刊行 九州大学名誉教授 服部英雄さん

元寇史の虚実 視線は今に

「元冠の原因は従来、日本の服属拒否とされてきたが、火薬製造に必要な「硫黄の確保」が目的だったと考える。厚遇された捕虜がいたことも具体例を挙げている。蒙古襲来によって途絶えたとの説もあった貿易も、文永の役(1274) と弘安の役(1281) の間、弘安の役の直後にも 盛んだったことを示す。 そして「神風」については、貴族や神職・僧侶が「神のご加護」と舞い上がった例を示す。一方で、日本側の兵船や農作物にも甚大な被害が出て凶事と捉える考えもあり、台風後にも両軍が激戦を展開したことも紹介する。「船が沈んだことは確か。風雨にやられて火薬が使えなくなった面もあったはず。それが誇張され、 伝説化した」とみる。「神風」の言葉が登場してくるのは40年ほど後、南北朝時代の直前だ。「日本の根底 にあった『神国思想』というものを完成させる一番大きな要素」と考える。(一部引用)」(2018228日西日本新聞)

 

そして、「『元冠十万屠りしところ』 と歌う1931年制定の福岡市歌や、軍隊で上官が「必ず神風は吹く」と訓示した ことなどを記し、さまざまな書籍から特攻隊の実情を述べ、特攻隊の美化ヘ警鐘を鳴らす。「本当に神風が吹いて日本が勝つとかなり信じられていた」と神風に焦点を当てた理由を語る。神国や神風は為政者らに都合がいい部分だけを抽出してつくられた神話だ。(一部引用)」(同前)

 

歴史は創られ、偽造されるという。今の時代も・・・・。

 

017.JPG

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「絶家」 [歴史]

 

 

歴史に名を遺す家というのは難しい問題があるのだと思いました。

 

「猛将・長宗我部の悩み 5.22

土佐の長宗我部といえば、安土桃山時代に四国ほほ全土を掌中に収めた猛将である。だが秀吉 に攻め込まれ、合戦で家康に敗れて、歴史の表舞台から消え去る。 「江戸時代は家紋も家名も使うことを禁じられた。島という姓に改め、ある時期は門番の仕事に耐えた。再び元の姓を名乗ったのは大政奉還の後です。そう語るのは17代当主の長宗我部友親さん(75)である。 元共同通信社経済部長。記者時代は安倍晋太郎、渡辺美智雄、土光敏夫といった政財界の要人を取材した。名刺を出すとだれもが驚いた顔をする。「ご子孫ですか?」。香川県が地元の大平正芳・元首相は、「わが家は長宗我部様の足元にも及ばないよ」と感慨深げだったという。今春、『絶家(ぜっか)を思う』という本を刊行し、家系の今後をめぐって揺れる思いを吐露した。家訓にいわく「水の流れに抗せざるが如く生きよ」。その言葉通り、家制度にこだわりはない。子どもに恵まれなかったのだから、自分の代で幕を下ろすのは自然なことと感じる。一方で、忍従の歳月に耐えた先祖に十分報いることができたのか、もどかしさも募る。親戚筋は東北から九州に広がる。(略)

戦国武将の末裔でなくとも、昨今は残された実家や墓をどうするか悩む人が実に多い。考えに考え抜いて吐き出された「絶家」という言葉がまっすぐ重く胸に迫る」(『天声人語2017年1月-6月』)

 

 

「水の流れに抗せざるが如く生きよ」という家訓から絶家を選択するというも勇気がいったでしょう。私みたいに何の歴史もない家なのでそんな心配はいりませんが、まともに暮らしていけるのかという心配はします。

003.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

歴史に関心が [歴史]

 

 

こんな店があるという。

 

「女性客が店に 釣り銭の厚意  66

時折立ち寄る軽食堂がある。マスターと女性数人のこぢんまりとした店。価格はリーズナブルでおいしく、何よりアットホームな 雰囲気にひかれる。 先日は既に女性が1人、 ランチを食べていた。若い子がお冷やをコップに注ぎ「ごゆっくり」と言っている。私も食事しながらテレビを見ていると、レジで女性が支払いをしていた。「いつもおいしいランチをありがとう。ほんの気持ちです。釣りはとっておいて」と帰られました。慌てて店の若い子が追い掛けましたが、釣り銭は手にしたままです。店の人に「困ったわね、今度来られたとき、必ず返してよね」と念を押され、若い子も「そうします」と頭を下げていた。でも、客がこのように感謝の気持ちを抱く店は最近、とみに少なくなっている。久々に心温まる思いに浸った。」(20171123日西日本新聞)

 

先日、特別史跡に指定されているところの発掘調査説明会に参加しました。歴史に詳しい訳でもなく、講座があったりすれば聞きに行く程度です。市の講座もありますし、九州歴史資料館(小郡市)ぐらいですが、伊都国歴史博物館には行ったことがありません。

 

「古代出雲の話伊都国で聞く  58

私が住む福岡県糸島市に伊都国歴史博物館があります。1126日まで「古代出雲と伊都国」という特別展があっています。今日は島根大学名誉教授による講演です。専門家の講演会といえば、眠たくなるんじゃないかなと思いましたが、とても面白かったです。私は古事記が好きで出雲に関する講演会が今年は3回もありました。糸島の地で出雲の話が聞けるなんて、本当にラッキーです。ハスの花が咲くころ、古代出雲人の聖地、荒神谷博物館(島根県出雲市)に行ってみたいなと思いました。 私が考古学に興味を持ったのは糸島市の平原遺跡と「ケンカ大六」と異名を持く 在野の考古学者原田大六氏の存在がきっかけです。 アカデミズムにひるまず、論争を挑んだ大六さんには心ひかれます。 彼が発掘し、国宝に指定された平原王墓の出土 品。伊都国歴史博物館に展 示されています。向き合う と、王墓に眠っていた女王 と大六さんに会っているような気がします。」(同前)

 

015.JPG

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

水城西門発掘調査説明会に行く [歴史]

 

 

17日の午後は暑いくらいの陽気でした。西門の狭い道は下大利の電車を利用するときに通ることが多いので、ここ数年、掘削が続いているのを見てきました。どんなことが分かったかというと新聞を引用します。

 

「水城の外濠はすぼむ形 調査結果を発表 大野城市教委 [福岡県]

 

 大野城市教育委員会ふるさと文化財課は15日、同市下大利4丁目の「水城」(国特別史跡)の発掘調査で、土塁の前面にあった外濠(そとぼり)は、60メートル幅で貯水していたとされていたが、実際は東から西へすぼまる形で幅が収束していた可能性が高いことが分かったと発表した。

 市教委は2015年度から、西門から東側の土塁の前に広がっていた外濠の範囲を、試掘などにより調査。その結果、外濠は東の60メートル幅が西門に近くなるほど狭くなっていたとみられることが判明したという。

 同課は、外濠北側の小高い丘陵「父子嶋(ててこじま)」(9万年前の阿蘇山大噴火時の火砕流堆積物で構成)が、土塁前面部の防御性を高めていた可能性を指摘する。

 一方、9世紀の西門に伴う官道と考えられていた遺構も調査した結果、出土品から12世紀前半築造と判明したという。 市は17日午後2時から現地説明会を催す。少雨決行。

2018/03/16付 西日本新聞朝刊=」

  

「父子嶋(ててこじま)」は、西門からJR水城の踏切につながる道路の右手にあります。阿蘇の大噴火の痕跡だという。庶民の苦闘を偲ばせます。

 

「父子嶋(ててこじま)(下大利)更新日:20160108日大野城市ホームページ

水城(みずき)の土塁(どるい)を築くため御笠、長岡、次田、大野郷の村々はもちろん、近国の農民達がかりあつめられました。朝鮮半島から難をのがれてきた人たちも混じっています。鍬(すき)で土を掘り、モッコをかついで運び、運んだ土はタコで突き固め、またその上に土を置いては突き固め、だんだん土塁は高くなっていきますが、連日の作業に農民達は疲れきっております。しかし、海の向こうの異国の軍隊が攻めてくるのを防ぐための土塁と聞いていますので、手を休めるわけにはいきません。来る日も来る日も前面の濠(ほり)を掘り、また近くの丘を削って、その土を土塁の上に運んでつき固める作業は続きました。

この公役(くやく)にかり出されている農民に大里(おおり)の里に住む父子がおりました。今日もモッコに土を入れて、子は前を父は後ろをかついで、朝から何回となく土塁の上まで往復しております。もう日暮れも近くなり、肩も腰も折れんばかりに疲れていますが、それでも一荷の土を前後にかついで、土塁の近くまで来ました。その時土塁の上から「わぁー」という喚声(かんせい)が聞こえてきました。こ踊りしながらとんで来た男が「土塁ができたぞう」と叫んでおります。父子はその声を聞くといっぺんに力がぬけて、へなへなと座り込んでしまい、かついでいた土をその場に投げ出してしまったのが、土饅頭のように盛り上がりました。」

003.JPG
005.JPG
007.JPG

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

偵察人数 [歴史]

 

 

磯田道史氏の著書は素人にも分かりやすく面白い。『日本史の内幕』では例えば次のような記述があります。

 

「物見(偵察)に出た時には、敵の正確な人数を大将に報告するものかと思えば、そうでもない。『敵の人数は多く言わざるものなり、敵の人数を5千とみたら2千余りか3千余という。1万と見たら5千という。大将もその分別して聞くもの也』これでは古文書に出てくる軍勢の人数が不正確なはずだと、妙に納得した。味方の士気を高めるため、物見役は人前では敵の人数を半分ぐらいに報告する習慣があったのだ」

 

そういえば集会などの主催者発表の参加者数と警察発表の開きが気になります。最近は主催者発表だけの記事も見ますが、警察発表は「敵」とみていたのでしょうか。そんなことが気になりました。

 

008.JPG

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

35億でも驚いたのに [歴史]

 

 

「近況往来 『子どもたちの階級闘争』で新潮ドキュメント賞

保育士・ライター プレディみかこさん

現場での葛藤そして政治と切り結ぶ

在英21年の保育士としてのルポルタージュ「子どもたちの階級闘争」(みすず書房)が第16回新潮ドキュメント賞に決まった。働くのは貧困層の家庭が多い託児所で、社会のきしみがダイレクトに顕在化する場所。そこに生きる子どもたちの闘争記でありつつ、もがきながら並走した自身の闘争記でもある。

受賞の報は、帰省中の福岡市で聞いた。「託児所は英国での原点でもあり、だから政治への興味が芽生えた。そこの話だけで1冊書くのが夢で、代表作にもなると思っていた」と喜ぶ。2008年、英国・ブライトンの貧困者を支援する慈善センターにある無料託児所で働き始めた。民間保育所を経て、15年に元の施設に戻った。受賞作では、 同じ場所での日常を二つの時期に分けて描き、その変化を浮かび上がらせている。

白人労働者、失業者、移民。当初はさまざまな人たちが集っていた施設が、戻ってみると移民ばかりになっていた。政府の緊縮政策 の影響で助成金が削減、移民向け英語教室のみが残り、その子どもが増えたためだ。(以下略)」(2017920日西日本新聞)

 

次は新聞の投稿欄からです。眠れなかったという。

 

「先祖をたどり 夜も眠れない  55

本紙文化面連載、藤浩志 さんの「地域と美術のすきまのやもり」が面白かった。藤さんが興奮していた。1年で1枚の蓮の葉が2枚に分かれるとする。すると「33年後、85億枚」に増える。そんな計算をしていた翌日、新聞1面に「33年後、85億人」とあった。1992年当時、世界の人口は54億人。それが2025年には85億人になると。 この「数字の一致。なんだ かすごい発見をした気になった」そうだ。 ならと、私も先祖を数え てみた。4代前の高祖父母 (曽祖父母の親)16人。 これは実感をもって理解で きる。33代さかのぼると「233乗」で実に85億人超の 祖先がいたことになる。 25歳で次の世代が生まれたとして、25×33825825年前といえば、鎌倉幕府が開かれたころだ。そんな時代に85億人もいたはずはない。(以下略)」(同前)

 

計算通りにはならないということか。

 

 

009.JPG

 

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

立花宗茂は大河ドラマになるか [歴史]

 

 

立花宗茂は福岡県・柳川藩の藩祖です。地元では大河ドラマにと動いておられるそうです。花宗川は高校時代通学時に渡っていた農業用水路です。

 

「宗茂が着手 半人工河川 矢部川から分流、23キロの花宗川 

運河と小河川を合体 農地潤し、大川家具も生む

 

 八女市で矢部川から分流し、筑後市、大木町を経て、大川市で筑後川に合流するまで約23キロを流れる花宗川。戦国末期から江戸時代初期にかけてのかんがい工事を経て完成したこの川は「半人工河川」とされる。耳慣れないこの言葉の意味を、川の歴史をたどり、探ってみた。

 八女市矢部村の釈迦岳山地を源にした矢部川は、日向神ダムを経て山間部を通り、いくつもの川と合流し次第に川幅を広げていく。星野川との合流地点より下流に約700メートル、川は石造りの花宗堰によって花宗川へ分流する。

 この川の整備に着手したのが戦国武将で柳川藩初代藩主、立花宗茂(1567~1642)だった。数々の武勲で知られる宗茂だが、地域振興にも関心が高く、1587(天正15)年に花宗川の開発に着手したとされる。花宗川の名は、立花宗茂の真ん中の2文字を取ったものだ。

 宗茂が川を整備した最大の目的は農業用水の確保だった。筑後平野は広大な農地としての可能性があったが、矢部川だけでは満たすことができず、その水をいかに有効利用するかが課題となっていたからだ。(以下略)=2017/10/03付 西日本新聞朝刊=」

 

 宗茂は太宰府の古代山城・大野城傍の岩屋城に産まれた。父は勇名をはせた高橋紹運だが現在の福岡市の東部の立花山に居城があった戸次道雪の娘闇千代と結婚し婿入りし立花姓を名乗ります。闇千代は葉室麟氏の小説でも描かれています。戸次氏は豊前の大友氏の係累です。宗茂は関ケ原で西軍につきますが柳川藩を任されます。この辺りがドラマ向けでしょうか。

 

 

 

004.JPG

 


nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:日記・雑感

歴史を学ぶきっかけ [歴史]

 

 

病を得て仕事を退職しました。1年も過ぎれば、病院でのリハビリが週1回。参加している社会福祉法人の活動に参加する程度になりました。何かを始めたいと思っていた頃、死が主催するシニア塾のことを知りました。そこで古代史についての話を聞くことにしました。そのときの講師が下記の田中史生氏の父正日子(まさひこ)氏でした。当初は女性かと思いました。話の間に正日子氏の父の話が出てきました。古代史一家だったのですね。紹介されている本も読んでみたい。

 

「近況往来 「越境」にこだわり 周縁から日本古代史を見つめる

関東学院大教授 田中史生

東アジアを俯瞰し、日本の古代史を見つめる。この時代、国家や国境は畷昧で「日本」という国は存在しなかった。現在の国家観で語れない歴史だからこそ、日本の周縁やその先に目を向ける。「周縁は文化のクロスロード」であり、 地域史からも古代社会の国際性を読み解く。 近刊「越境の古代史」 (角川ソフィア文庫)は、8年前の同名著書を加筆した文庫版ではあるが、渡来人と渡来文化の展開、大宰府と奄美諸島の交易、新羅人をはじめとする国際商人の動向など、国内外のフィールドワークにも基づいたダイナミックな論考は色あせていない。「越境」は今もこだわるキーワードだ。文字資料だけでなく、大宰府との交易がうかがえる城久遺跡群(鹿児 島県喜界島)などの考古学的成果も 積極的に取り入れる。「文献に書かれていないことが遺物や遺跡から見 える」。島根県埋蔵文化財調査セン ターで発掘調査に携わった経験が生 かされている。 福岡県久留米市出身。祖父の幸夫さんは九州考古学の黎明期に活躍、 父の正日子さんは第一経済大で古代史を教えた。古代史一家に生まれ、 古くから大陸と交流してきた福岡で育ったことが 少なからず研究姿勢に影響しているという。最近かは北海道大を中心とした研究グループに参加し、 アイヌ民族とアイヌ文化の形成の歴史をひもときながら北方の周縁とも向き合う。

政治的論理が優先される中心に対し、周縁は中心の影響を受けつつも多様なヒトとモノが行き交った。「周縁からは、中心とは違った日本史、日本とアジアの関係史が見えてくる」

福岡県立明善高校OB50歳。昨年、著書「国際交易の古代列島」(角川選書)が古代歴史文化賞の大賞に選ばれ、注目度が高まっている。(野村大輔)」(2017922日西日本新聞)

 

015.JPG

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感