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博多塀 [歴史]

 

 

福岡市の「赤煉瓦文学館」で開かれている立石光世写真展「博多べい」を見に行きました。いろいろと教えられました。そこで配布された資料には次のように述べられています。

 

「博多のシンボルとも言える『博多べい』 (正式名称「博多練り塀)は、1587(天正15)に豊臣秀吉 が多々良浜の戦いや島津氏侵攻の戦いなどで荒廃した博多の町を復興するために行なった『博多町割り』の際、兵火による焼け石、焼け瓦を粘土で固め築いた土塀ですが、『博多べい』の外観は瓦を積み重ね築かれた熱田神宮の『信長塀』に極めて似ており、私はこの『信長塀』が『博多べい』の原型ではないかと考えて います。さらに、『博多べい』には韓国伝統的な土塀の要素も加えられたのではないかと想像しています。 秀吉の朝鮮出兵の折に朝鮮から連れて来られた陶工が、有田の窯業地で窯や仕事場周辺を取り囲むように築いた『トンバイ塀』や遣新羅便の航路上に位置する山口県上関町の祝島で見られる石積土塀の存在が その大きな理由です。このことは歴史的観点からも当時の日本と朝鮮を結ぶ大きな手掛かりになるのではないかと信じています。また、韓国の慶州や安東河回村には現在も『博多べい』に似た風情を持つ石積土塀 が多く見られることから推察しても、『博多べい』のルーツの一端は朝鮮半島にあるのではないかとの想 像に至りました。

『博多町割り』にも関わったとされる嶋井宗室は、酒造販売業、金融業、朝鮮貿易などを生業とし、時の 大名である黒田如水、毛利輝元、茶人の千利休との親交や、晩年の織田信長にも面識があったことなどから 政治的にも大きな影響力を持っていたと推察されます。

また、博多の復興は秀吉の朝鮮出兵(592年・文禄元年)に備えての拠点、づくりで、あったことは明らか で、当時宗室は秀吉の朝鮮出兵には強く反対し、その状況を回避すべく対馬の宗義調(そうよししげ)、義智 (よしとし)らと協力して博多聖福寺の住職景轍玄蘇(けいてつげんそ)に日本の国使として朝鮮との交渉役を委ね、町割り開始の翌年1588(天正16)には宗室本人も派遣団の一人として朝鮮に同行するなど 奔走しています二それだ、け宗室が隣国の朝鮮を大切に想っていたことが窺えます。 こういった背景から宗室は、日本と朝鮮の平和を願い宗室独自のアイデアでこの『博多べい』を築いた のではないでしょうか。

結局、当時は1592(文禄元年)1597(慶長2)の二度にわたる日本軍の朝鮮侵攻により朝鮮の 国土は荒廃、民衆の心のよりどころである寺院は全て焼き払われたのです。平和を願っていた宗室や朝 鮮派遣団一行の想いは残念ながら叶いませんでした。(一部引用)

 

「信長べい」「トンバイ塀」「祝島」及び韓国との関連については初めて聞きました。

 

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太宰府馬車鉄道 [歴史]

 

 

 

連載「天神大牟田線物語」は「鉄路延ばす『宰府詣で』」です。

 

「県内で初めて、道路に敷設したレール上を運行する「軌道」で開業したのは太宰府馬車鉄道でした。1902(明治35)年の菅原道真公千年忌大祭に合わせ、二日市駅から天満宮参道まで開通させています。天神大牟田線も、最初は
福岡市と太宰府天満宮や二日市温泉を結ぶ電気軌道として構想されました。久留米市までのインターアーバン(都市間鉄道)に変更された後も「宰府詣で」の需要は経営の大きな要素で、太宰府軌道(動力を蒸気機関に変えて馬車鉄道から改称)と早々に経営を一体化させました。菅公1025年忌大祭の1927(昭和 2)年、線路を敷き変えて 電化したのが現在の西鉄太宰府線です。
乗り合いバスも同じよう な歴史があります。都市内 の輸送が先行したと思われがちですが、県内で最初の バス路線は1913(大正 2)年の国鉄二日市駅-太宰府。やはり「宰府詣で」の輸送が目的でした。2番目のバス路線は鉄道で結ばれていなかった福岡-飯塚で、福岡や北九州の都市内にバス路線が開設されるのはもっと後年のことになります。(西鉄広報課吉富実)」(2017419西日本新聞

 

これだけの信仰を集めた菅原道真公の力とは・・・。鉄道でなく、歩いての参拝者も多かったという。そのルートを解明した本も出されています。

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洞海湾の古城 [歴史]

 

 

西日本新聞によれば、若戸大橋の下にかば島(パソコンで出てこない「ば」という字)で通称「中ノ島」とも呼ばれたという。そこに福岡藩の出城として「若松城」があったという。幕府による一国一城令により廃止された。明治の頃には工場などがあったという。1940年に安全航行のために削り取られたという。大戦が始まる前です。

北九州市のネットの説明もありました。

 

「もともと、地方の一村落でしかなかった若松村が水運の拠点として大きな役割を担うのは、遠賀川の上流一帯で産出される石炭の積出港になってからである。
(略)

 洞海湾の湾口、若松、戸畑間にかば島(通称 中ノ島)があり、藩政時代は、黒田藩三宅若狭家義の小城が築かれていたが城は後に壊された。

 この島は幕末当時、台場があり、明治大正期には造船所数件と貯炭場などがあったが、昭和1410月当時の内務省が切り取り工事を開始、昭和1512月に完了し、今はその姿をとどめていない。(北九州風土記による)

 また、奥洞海湾入口(八幡製鉄所の西側)に葛島があり葦が生い茂っていたが、埋め立てられ八幡製鉄所と陸続きになり植樹され緑の小山になっている。」

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豊前国と筑前国の境になり、そのための防衛のためのものだったのではないか。

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水城のナゾ [歴史]

 

 

私の住む大野城市は太宰府市と隣接しています。大野城は白村江の戦いに敗れた今の日本側が唐・新羅連合軍に攻撃に対しての防衛施設として朝鮮式山城「大野城」や「水城」をつくったとされています。ですが、定説とされるものが発掘で確認されないこともあり、ナゾは深まっていくという記事です。来年度も発掘は続くというので楽しみです。

 

「謎深まる「水城」の外濠 大野城、太宰府市教委が発掘調査 技術力示す再出土の木樋 [福岡県]

 

 わが国初の国家的な防衛施設として664年築造とされる水城跡(国特別史跡)について大野城、太宰府両市教育委員会は4日、それぞれの調査現場で市民向けの説明会を催した。調査は県と連携して行う保存整備のための基礎資料収集が目的だが、通説への疑問が膨らんだり、古代の高い技術力を再認識させられたりといった成果もあった。調査から見えてきた水城の実像を探る。

 

 ■外濠の形状に疑問

 「掘っても掘っても、よく分からないですなあ」

 大宰府史跡調査研究指導委員長の小田富士雄福岡大名誉教授は、首をかしげた。大野城市教委が2月末に発表した「水城西門前で溝状遺構3本確認」への感想だ。

 1975年に東門(太宰府市)付近を掘った九州歴史資料館(九歴)は幅約60メートル、深さ約4メートルの外濠(そとぼり)を確認。約20年前に御笠川を挟んで約1キロ離れた西門前まで60メートル幅の外濠が続くイメージ図を作り、それが通説化している。

 しかし今回、西門前付近で明確な外濠遺構は確認されなかった。「外濠の西端が、鴻臚館と大宰府を西門経由で結ぶ官道の東側溝も兼ねたのではないかと痕跡検出を期待したが、出なかった」と坂井貴志大野城市教委主事。

 西門前で出た溝状遺構3本を坂井さんは「流水の痕跡があり、外濠と見ていいのでは」とするが、外濠の形状への疑問が膨らんだ。(略)

 ■古代の技術に驚き

 一方、太宰府市教委が掘った東門付近では86年ぶりに「木樋(もくひ)」が再出土し、関係者を驚かせた。木樋は、太宰府側の内濠(うちぼり)から土塁下を通って博多側の外濠に水を流す導水管。1931年に長沼賢海九州帝国大教授が調べた同じ場所から、再び現れたのだ。

 「井戸枠かと思って掘ったら板が出て、分かった。底板は保存状態が良く、土木建築技術の高さに驚いた」と沖田正大主任技師。

 例えば板2枚に段差をつけて上下をかませた底板を、ビスで留めるように両方のほぞ穴に木材(ダボ)を入れて固定していた。かつて春日市の小(しょう)水城で出土した木樋でも確認された工法。中村昇平同市教委課長補佐は「古代の寺院建築技術の応用で、レベルの高さは素晴らしい」と感嘆する。

 

 ■定説への疑問大事

 「下成土塁の地層に筑紫地震(679年)の痕跡らしいものがある」。太宰府市教委が土層確認のために掘り下げたトレンチ(試掘坑)で土塁の断面を見た地質学・土壌学の専門家から、そんな指摘がなされた。

 筑紫野市で新たに見つかった前畑遺跡の土塁関連のシンポジウムでも、その専門家は同様の発言をして「築造時期のヒントになる意見」と評されていた。水城の土層にも確かに、強い圧縮で生じた凹凸があるように見える。太宰府市教委は「さらに専門家の意見を聞いて検討したい」という。

 大宰府史跡発掘開始から来年で50年。小田さんは「大宰府史跡の実像はかなり見えてきたが、課題も出てきた。自然環境を利用する古代人的な感覚で史跡を見て、定説に疑問を持つことが大事だ」と話している。

 メモ 水城で木樋を発見した長沼賢海氏が調査成果を報告した「福岡県史跡名勝天然記念物調査報告書」で発見年を「昭和五年」(1930年)としたのは「昭和六年」(1931年)の誤り。伊崎俊秋前九州歴史資料館副館長が当時の文献などを綿密に調べ、結論づけた。「校正ミスかと思われる」としている。=2017/03/09西日本新聞朝刊=」

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水城西門官道 [歴史]

 

 

4日、古代の防衛施設「水城」の発掘調査の報告がありました。水城には西門と東門があり、東門は太宰府市の管轄、西門は大野城市と二つの市にまたがっています。

説明資料によれば、『日本書紀』に「筑紫に大堤を築き水を貯へしむ。名を水城と曰う」とあるそうです。白村江の戦いに敗れた倭(日本)は、唐・新羅連合軍から大宰府を守るために築いた土塁を築きます。博多側の外濠に水をためて侵入を防ごうとしたようです。田植え時のたんぼみたいな状況ではないでしょうか。土塁は長さ1.2キロ、高さ710メートル。

出入り口は博多に向かって2か所。今回は西門の門の位置は分かっていますが、博多方面の官道の位置を確定するための調査でしたが、西側の側溝は見つかったが、東側が確認できなかったという。素人の聞きかじりなので間違いがあるかもしれません。来年度も発掘は続けられるそうです。

図は説明資料からです。

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女性領主がいて欲しい [歴史]

 

 

「早食いで窒息 番組見直そう  61

滋賀県で農産物PRイベントとして開かれたおにぎり早食い競争。のどに詰まらせ、28歳の男性が亡くなった。遺族 の無念さは察するにあまりある。近江米のおいしさを知つてもらうための企画だったようだ。他に農産物をPRする方法はなかったのか。味覚で地元産がどれか当てる。一定量を食べてその重さを当てる。これだと老若男女、幅広く参加できただろうにと思う。
フードバトルは危険が伴う。過去には、給食のパンを早食いして、小6や中3 が亡くなっている。 これにはテレビの「大食い番組」が影響している。滋賀の事故から2 週間「大食い王決定戦」が放送された。テレビ局側はもう少し間を空けるとか、配慮が必要だったのではないか。正月、毎年のように高齢者が餅を詰まらせる事故が多発する。気を付けよう。」(20161217日西日本新聞

 

先の東京五輪で金メダルの女子バレーの磯辺さんが亡くなられたという。72歳というのは早い。戦災孤児だったという。

女領主のことを知ったのは中島京子『かたづの』で八戸南部氏の一代記を読んだ時に井伊家にもいたということを聞きました。それが男かもしれないというが決定的なものではない。今の時期に公表されるのも納得がいかないが・・・。

 

「井伊直虎、実は男?

新史料 来年の大河主人公に別人説

 

井伊直虎、 戦国時代を舞台にした来年のNHK大河ドラマ「おんな城主
直虎」の主人公、井伊直虎と
みられる人物について記した江
戸時代の新史料が見つかった
と、井伊美術館(京都)が発 表した。従来の史料と併せて検討した結果、直虎は女性ではなく、今川家の重臣の息子だった
と判明したと説明している。
直虎は史料が少なく謎の多い人物。「次郎直虎」と書かれた戦国時代の連署状や、井伊家当主の娘が「次郎法師」と名付けられ地頭となったと伝える史料などがある。これらを結びつけ、女性の次郎法師が後に直虎を名乗ったと考えられている。(略)

来年の大河ドラマの時代考証を務める小和田哲男静岡大名誉教授(戦国史)は「面白い史料かもしれないが、聞き書きという二次史料で『次郎直虎』という表記は出てこない。直虎が女性であることを否定するものではない」と指摘している。

 

NHK広報局の話

ドラマ あくまでフィクションであり、 影響はないと考えている。1 間、視聴者の皆さまに楽しんでいただける大河ドラマを制作していく。」

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長崎街道 [歴史]



 



 



シーボルトも利用したという街道ですが、内野宿はまだ行っていません。原田(はるだ)駅からJR筑豊線から乗り換えて山家まで行って散策した時のこと、乗る時にICカードで入場して原田駅で1両の筑豊線に乗り換えるとカードで精算できないという。それから足が向かない。筑豊線の無人化計画があり、JRは実施するという。地域の足は細るばかりです。



長崎街道の原田宿は筑紫神社の近くにあります。内野に行くことがあるでしょうか。



 



「旧長崎街道の難所・冷水峠わらじで歩く 変わらぬ風景、先人に思いはせ [福岡県]



 



 江戸時代、伊能忠敬や吉田松陰ら多くの歴史上の人物が往来した旧長崎街道・冷水峠。その北東にあった宿場町「内野宿(しゅく)」の風情が色濃く残る飯塚市内野地区では、昨秋から武士や商人さながらにわらじを履いて峠を歩くイベントが開かれているという。歴史好きの私にとって心躍る話だ。発起人の1人、武藤俊道さん(69)が下見に行くと聞き同行した。



 「冷水ウオーク」と題した散策イベントは昨年、住民らでつくる「内野地区活性化協議会」が企画。筑紫野市との境界近くの大根地神社から内野宿まで、今も残る旧道など6キロの道のりをたどった。



 「長崎から江戸を目指す旅人の気分で行きましょう」。11月中旬の午前11時、武藤さんに従い、杉木立に囲まれた古道を歩き始めた。前日は雨で地面はぬかるんでいた。転ばないよう歩を進める。数十メートル下ると、行く手に幅1~2メートルの石畳の道が伸びていた。



 約400年前、福岡藩主黒田長政が整備したと伝わる。「ジャリッ、ジャリッ」。意外にもわらの摩擦で踏ん張りが効く。武藤さんの話では、峠を歩いたドイツ人医師シーボルトは手記に「石畳は雨が降ると滑りやすく、革靴よりわらじが良い」と記している。歩くたびにわらが足になじむ。素足のように心地よい。



 石畳は600メートルほどの長さだが、ところどころ土砂に埋もれた場所があった。「冷水峠は歴史の道百選にも選ばれ、整備すれば観光資源になるはず」と武藤さん。月に数回、内野地区の住民で峠道の清掃をしているが、「人手が足りない現状」とこぼした。



 数十分後、峠のそばを流れる冷水川の水音が迫ってきた。突然、オレンジ色の何かが石畳の隙間から現れ、慌てて足を止めた。正体は沢ガニ。武藤さんは「清らかで冷たい水が川の名前の由来です」と沢ガニをつかんで見せた。



 川に架かる長さ5メートルほどの石橋が見えた。1861年、初代英国駐日公使ラザフォード・オールコックは、旅人の休息地だったこの場所の写生画を描いた。現在、内野宿展示館に展示されている複製画を見ると、風景は今とほとんど変わらない。脇には山賊に首を切られたとの民話が伝わる首なし地蔵も。武藤さんによると、昔は通行人を狙う山賊も多かったとか。過酷さに加え危険も伴う峠越えの厳しさを思った。



 出発から2時間後、国道200号に出た。わらじは底が破れかけている。「もう一踏ん張りです」と話す武藤さんに続くと、国道に並行するJR筑豊線の電車が通り過ぎた。JR筑前内野駅から峠を挟んだ隣の筑前山家駅までの所要時間はわずか12分。当時の旅人の苦労に頭が下がる。



 内野宿に着いたのは午後3時ごろ。のどかな田園の向こうに山々の紅葉が映えていた。長崎街道で最大の難所を越えた一行も、すがすがしさとともにこんな景色を味わったのかも-。多くの人物が峠の記録を残した心境が、少しだけ分かった気がした。=2016/12/04 西日本新聞朝刊=」



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大宰府防衛の土塁・保存はどうなる [歴史]

 

 

白村江の戦いに敗れた日本は唐・新羅連合軍の侵入を想定して山城・大野城や基肄城(基山)を、そして、防塁として水城をつくりました。今回の発見は、基肄城と大野城につながる地域にあり、同時期の防塁ではないかとされています。

 

「大宰府防衛の土塁か、福岡で発見 7世紀、500メートル以上

20161128西日本新聞

 

福岡県筑紫野市の前畑遺跡で、古代の大宰府を防衛した外郭線とみられる7世紀ごろの土塁が見つかり、市教育委員会が28日発表した。丘陵の尾根に人工的に盛り土し、南北に500メートル以上続いていたとみられる。日本は663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗れたことをきっかけに九州の防衛を強化しており、当時の緊迫した状況がうかがえる。

 土塁は、大宰府の中核だった政庁跡から南東に約7キロの地点で出土した。上下2段の台形状で、上端は幅約1・5メートル、下端は幅約13・5メートル。(以下略)」

 

市は保存するとは言っていないので心配です。

別の記事では

「福岡県筑紫野市で見つかった古代の土塁は、いまだ謎が多い古都・大宰府の実態に光を当てた。朝鮮半島の覇権争いに日本や中国も加わった7世紀という東アジアの激動期に築かれた防衛ライン。北西約7キロには古代九州の中枢・大宰府政庁跡がある。土塁は大宰府を取り囲む城壁=羅城(らじょう)=の一部なのか。

「都城の“しっぽ”をようやく捕まえた」と福岡大の小田富士雄名誉教授(考古学)は喜ぶ。都城とは、城壁で囲まれた都市のこと。大野城や基肄(きい)城といった古代山城、平地をふさいだ水城をつなぐ城壁の存在は以前から指摘されていた。「実物が見つかった意義は大きい」と小田さん。

 大宰府の都市モデルとされるのが韓国西部の扶余だ。百済の最後の都、泗〓があった。日本書紀によれば、大野城や基肄城の築造には百済の人々の指導があったという。今回の土塁も水城や古代山城との構造上の類似性がある、と筑紫野市教育委員会は見ている。

 泗〓都城は北から東に城壁が連なり、西と南は錦江という大河が流れる。大宰府都城も自然地形と土塁を組み合わせている。「中国の羅城という概念が百済から伝わり、大宰府の都城は形成されたのだろう」と九州大の西谷正名誉教授(東アジア考古学)は話す。

 城壁の一部という見方に慎重論もある。古代山城に詳しい同県文化財保護課の赤司善彦課長は「類例がなく、今は状況証拠しかない。単体の防衛施設という見方もできる」と指摘。土塁の年代も幅が広く、築城年が明らかな大野城や基肄城、水城とは異なる。

 この発見によって、古都・大宰府の広域性があらためて浮き彫りになったのは確かだ。位置づけが定まらない近くの阿志岐山城の研究が深まる可能性もある。大宰府都城の外郭線を描くためには、史書に登場する重要施設をつなぐ今回の土塁のような「点」をさらに見つけ、「線」で結んでいく広域的な調査研究が欠かせない。=2016/11/29 西日本新聞朝刊=。」

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「七隈」というところ・身近な歴史 [歴史]

 

 

20161119西日本新聞の地域版で「歴史と文化息づく住宅街・博多人形支える土、私設美術館も・福岡市城南区七隈」という記事がありました。

 

・旧早良街道・太閤道

「現在の早良区西新―板屋 を結び、江戸から明治時代 にかけてにぎわった「板屋道」(旧早良街道)。南北 に走るこの道と、朝鮮出兵の際に名護屋城(佐賀県唐 津市)に向かう豊臣秀吉が 通ったという」「太閤道」が
交わる1丁目に、元福岡大 理事長の末永直行さん(93) が設立した末永文化センターがある。」

 別府から旧早良街道までの太閤道がネットにも紹介されています。昔の国道クラスなのでしょうが車一台が通れるほどの幅です。末永文化センターの北側の敷地との境界になります。文化センターの「敷地内の茂みにひっそりとたたずむ「忘帰台」の碑。江戸時代、一帯は福岡藩の狩り場で、黒田の殿様が一服する茶屋があったという。
「ここから見る博多湾の眺めがあまりにも美しかったので、殿様がお城に帰るのを忘れた。それが名前の由来になったそうです」
でも海までは結構な距離
があるような。ホントかなあ・・・。

すると菅間さんが、古地図を広げた。「1丁目の隣の町名は『荒江』。海を示す『江』が入っているように、昔はもっと海が入り組んでいたのかもしれませんね」博多湾の歴史は干拓の歴史ともいう。納得である。」

他にも、七隈粘土・菊池神社なども紹介されています。

 

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古代の謎 [歴史]

 

 

菅原道真の住居跡ではないかといわれる史跡が榎社で発見されました。最高位の人の居宅跡はどこか 新聞からです。

 

「探索 大宰府高官宅

最高位者の住居示す「岡」

月山、朱雀大路沿いの2説

 

1968(昭和43)年の大宰 府政庁跡での鍬入れ式以来、九州歴史資料館(九歴)や太宰府市教育委員会などは国特別史跡.大宰府跡の全容解明に取り組
んできた。結果、政庁建て替えや条坊(碁盤白状の都市プラン)の存在など新事実が次々と判明した。しかし未解明の謎も残る。

その一つが太宰帥(奈良時代)や権帥・大弐(平安時代)など大宰府の最高位者はどこに住んでいたのか、である。

 

通説覆す調査結果

 

帥や大弐の館の場所を初めて 提起したのは、大宰府研究の草分けの一人、竹岡勝也九州大教授(国史学)52年発行の「太宰府小史」に「この台地こそは
帥や大弐の館の祉と考えられなくもない」とする論文を載せ、
政庁跡西北の坂本八幡宮付近を挙げている。
根拠は「内裏」の地名が残っていたことと、大宰帥だった大伴旅人が詠んだ歌「わが岡にさ男鹿来鳴く・・・」(万葉集)などに度々出てくる「岡」。「旅人宅は岡の上かその辺り」と推定し、政庁跡周辺を見回してその結論に達したようだ。

86年、通説のようになっていた竹岡説を検証するため、九歴は第100次調査で現地を発掘調査した。その結果、祭祀用とみられる土製「土馬(どば)」が出たものの、建物など遺構は検出されなかった。九歴は「ここは違う」と判断した。(以下略)」(20161020日西日本新聞)

 

いろんな説があるそうですが、特定はされていないそうです。

次は、さらに古い歴史です。

 

「邪馬台国 大和政権成立期

纏向に次ぐ大型建物跡

最大規模の鍛冶工房も

 

滋賀県彦根市の稲部遺跡で、古墳時代前期(3世紀中ごろ)の大型建物跡(面積188平方)が見つかり、17日、市教育委員会が発表した。弥生時代末古墳時代前期では、邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡(奈良県桜井市)の大型建物跡(238平方メートル) に次ぐ規模だった。また当
時では国内最大規模の鍛冶工房とみられる遺構も見つかった。

遺跡は東日本と西日本をつなぐ交通の要衝に位置。邪馬台国の頃にあった国の一つとする見方もあり、邪馬台国から大和政権成立期に鉄と交易で栄えた一大勢力があったことを示す遺跡として注目されそうだ。(略)

 

定森秀夫滋賀県立大教授 (考古学)の話

稲部遺跡 は弥生時代から古墳時代中 期にかけて継続した遺跡 で、古墳時代前期前半の豪

族居館の成立過程が分かり、重要だ。弥生時代末から古墳時代初頭の鍛冶工房で使った鉄素材は朝鮮半島から輸入しており、それを入手できる強力な豪族の存在を示している。地理的に、大和の政権中枢から入手したのではなく、日本海ル―トで独自に入手していた可

能性があり、さらにその製品を東国ヘ供給していた可能性も考えられる。」(同前)

 

この遺跡がどんな役割を持っていたのか、気になりますね。

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