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落書き [書く]

 

 

テレビも面白くないのでというとBSは面白いのがあるよという声が聞こえてきそうですが、BSはつけていません。そこでラジオになります。パソコンでラジコを聞きます。今までNHKは別のソフトでしたが、面倒なのでほとんど聞きませんでした。それが今月からNHKもラジコに入りました。クラシックなども聞けます。

 

 落書きの話です。

 

「全身に落書き男一代の恥辱  85

文字を覚えたての小学生たちはやたら、落書きをしたがる。道路沿いの板塀などに、チョークで「へのへ のもヘじ」など勝手に書き なぐる。「至らんことをし おって・・・」とぶつくさ言い ながら、その家のおやじさが雑巾でぬぐっていた。 1954年の滋賀県の紡績工場、近江絹糸紡績の女工たちが待遇改善を求めて起こした「らくがき運動」。世間が注目する労働争議に発展した。落書きが市民権を得た労働運動だった。

4姉の夏休みの当番登校に、6歳の私が付いて行った。10人ほどの女児たちの書き方自習を私がのぞいていると、誰かが私の鼻の頭に筆で墨を塗った。それをきっかけに、みんなに顔中に落書きをされた。墨汁が流れるのでシャツを脱がされ、ズボンもパンツも脱がされて全身、落書きだらけにされた。揚げ句に足洗い場に立たされ、雑巾でこすられるさまは男一代の「恥辱」だった。」(2017821日西日本新聞)

 

 落書きは昔から抵抗としての表現としても使われたと記憶しています。でも、落書きが許される環境はほとんどありませんが。

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つぶやきの魅力 [書く]

つぶやきの魅力 言葉が駆けぬける

 

大統領のつぶやきが朝一番のニュースになる。

 

「氾濫する言葉  村田喜代子

朝起きると、今日もまた新聞 やテレビが米大統領の「つぶやき」を報じている。金髪の牛みたいなこの人物の電気に乗せた私
語は、三万五千回を超えている。
息をしながらつぶやいている。
ツイッターを「つぶやき」と
いうのはどういうわけなんだろう。「つぶやき」は語尾に「・・・・・」の記号を付すような、小声で聞き取れないくらいの言葉をさす。それが彼の場合は繰り出すミサイルのよう。波乱を呼ぶ。いったいいつから世の中は、こんなにうるさくなったのか。むろん昨日今日からのことでない。ヒトはもともと大昔、合

道と気道が別々になった解剖学的変化で以て、言葉を発するようになった。以来、人間の世間は他の動物と分けて画然と騒がしくなった。(略)

沈黙とは単に「語らざること」 ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものである。  『同』

 

そういえば、かつて日本は沈 黙を大切にする国だったのではないか。多弁より、無言の重みを感得することができた。
民主主義は確かに古いギリシャの雄弁術と共に発展したが、
その雄弁には沈黙との間合いが
なくてはならないだろう。
見まわせば政治家や元都知事

までが、電気の「つぶやき」を発しているが、私は新聞の短い川柳のつぶやきを愛する。たった十七文字の言葉だが、こちらには創作の呻吟が窺える。他意を持たない言葉の素手の人々の姿が清々しい。

 

呟きに「右往」「左往」の 夜明け  福田朋明

 

オスプレイが気を使いつつ 落ちてきた 上野キミ子

 

夢の中やさしい声で話す妻  田中勝子

 

 三番目のふつうの句もいい。」(201729日西日本新聞)

 

毎日新聞の川柳も良い。西日本新聞の「ニュース川柳」も必ず読みます。そして、その力量に驚きますが、すっきりと理解できます。

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面白くないことを面白くないままに [書く]

 

 

福岡では、ソフトバンクホークスの優勝セールの準備が進んでいるようです。次のコラムには考えさせられました。朝日新聞を退職する記者のものです。朝日新聞だからか。真面目くさい記事が多かったのは。でも、耳が痛い。つい真面目にだけ書いておれば安心する私にとって耳が痛い。

 朝日新聞はバッシングに遭いましたが、その対応のまずさなどからさらに窮地に陥りました。朝日新聞をかつては長い間読んでいましたが、ここ10年以上は地元紙です。フリーのライターなどからは、タクシーで移動するし「上から目線」という指摘もあります。ですが、下記のコラムは別の意味で、本質を指摘しているのかもしれません。それは私にもあてはまるのかもしれません。でも、愚直な記事があることも必要かもしれません。

 

「ザ・コラム)あれから1年 寂しさを抱きしめて 稲垣えみ子

2015910日朝日新聞

 

 今回、とてもうまく書く自信がありません。でもとにかく一生懸命書きます。

 私、朝日新聞を退社することになりました。このコラムも今回が最後になります。

 念のためですが、理由は会社への不満などではありません。人生の後半戦をどう過ごすか、自分なりに考えた結果なのです。

 得ること、拡大することばかりを考えて生きてきました。でも平均寿命の半分を過ぎたころから、来たるべき死に向かい、閉じていくこと、手放すことを身につけねばと思うようになりました。大変なギアチェンジです。そのための助走として会社員人生に50歳で区切りをつけ、もがきつつ再出発したいとずっと考えてきました。

 そろそろ実行に移そうとしていたとき、思いがけずこのコラムを担当することになったのです。スタートはちょうど1年前。あのときを思い出すと、今も呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる自分がいます。

 朝日新聞は二つの大きな誤りを認め、その姿勢を批判するコラム掲載を拒んだことも明らかにしました。なぜそうなったかは考え続けねばなりませんが、世間にどう見られているかは明らかでした。「自分たちが正しいと思うことを主張するためには、事実を曲げることもいとわないのか」

 口をぱくぱく動かしても言葉が出てこなくなりました。信用のない人間が書くもっともらしいことなど誰が読むでしょう。お前何様やという声が聞こえてきます。

 奇策しかありませんでした。「自分のことを書く」。アフロにしたら突然モテ始めたというバカバカしい実話をつづりました。それこそ「お前誰やねん」という内容ですが、自分を笑うなら許されるかもと思ったのです。原稿を出したのは締め切り直前。編集長は驚き困っていたけれど「時間がない」と押し通しました。ゴメンナサイ。でも私がいちばん不安でした。

 結果は思いもかけないことでした。

 「元気が出た」とメールや手紙が大量に来たのです。闇の中、その声だけが灯台でした。その後も自分のことを書きました。薄っぺらい我が身をさらす恐ろしさ。批判もありました。でも世の中のことであっても「だれかのこと」でなく「自分のこと」として、せめて泣きたくなるような実感をつづらねば相手にしてもらえないと追い詰められた気持ちだったのです。

 振り返れば、わからないということ、だから悩むのだということ、苦しいが生きていかねばならないということ――そんなことばかり書いてきた気がします。そのたびに多くの感想を頂きました。悩みや体験がつづられた一つ一つの文章に人生がありました。何度も読み返しました。

 28年の記者生活でこれほどの反響を頂いたことはありません。一体なぜなのか。

 もしかして、私はマスコミにいながらコミュニケーションをしてこなかったのかもしれない。新聞とは正しいことをキチンと書いて伝えるものだと思ってきました。でもそうしてがんばって書いた記事の反響は驚くほど少なかったのです。わずかな反響は苦情と訂正要求。「正しいこと」には別の「正しいこと」が返ってくる。それは果たしてコミュニケーションだったのか。

 自分のこととして世の中を見たこの1年、痛感したのは何が正しいかなんてわからないということです。皆その中を悩みながら生きている。だから苦しさを共有するコミュニケーションが必要なのです。なのに分からないのに分かったような図式に当てはめて、もっともらしい記事を書いてこなかったか。不完全でいい、肝心なのは心底悩み苦しむことではなかったか。

 そして、新聞は誰に読まれているのかを初めてリアルに見た1年でもありました。路上で、電車で、店で、山で「朝日新聞の人?」と声をかけてくれた方は中学生からお年寄りまで泣けてくるほど多彩でした。人々が分断され攻撃的な言葉をあびせあう今、これほど広い人に読まれる新聞は奇跡です。ああそこから離れる寂しさよ!

 人生はいつも、失うときに初めて肝心なことに気づくものなのかもしれません。

 でも、寂しさを抱きしめて生きていこうと思います。寂しいから人はひかれ合う。きっと新たな出会いがあると信じて。 (編集委員)」

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「タワークレーン」の機能は [書く]

 

 

盆休みで次男が久しぶりに帰省しました。独立心が強いので、大学入学後、1人での生活を続けていて、親がいろいろと心配することはありませんが、もう若いとは言えない年になりつつあり、元気かどうか気になります。帰省したからと言って特別のことはありませんが、元気な姿を見ることで十分です。

 

「タワークレーン」の解体法はクイズ番組でもよく取り上げられているように思います。アーサー・ビナード氏は次のように述べています。

 

「高層ビルの建設工事は、「タワークレーン」と呼ばれる起重機を中心に進められる。鉄骨

をどんどん吊り上げては組み立てていき、ピルがにょきにょき伸びるにつれ、クレーンも上へ上へとクライミングして、常にてっぺんにのっかっている。やがてビルの形ができ上がり、骨格の工事が終了してタワークレーンに用がなくなると、いつの間にか姿を消す。

いったいどうやって、どこへ消えるのかというと、まず屋上にもう一台、中くらいのクレ

ーンを組み立て、それを使ってタワークレーンのほうを解体し地上へ降ろす。それからもう一台、小型のクレーンをまた屋上に組み立てて、それを使って中くらいのやつを解体して地上へ。最後には、その小型クレーンを手作業でばらし、エレベーターで降ろして運び去る。

思えば詩人も、作品を組み立てるためには同じような手順を踏む場合がある。天へのぼる
ような、そびえる高みから見わたすような、愉快な仮想へとぐんぐん伸びていくような詩を
書こうとするならば、着想の鉄骨を吊り上げる装置が必要になる。そんなアイディアのタワ
ークレーンみたいな役割を果たしてくれるのは、「もしも」という言葉だ。 常識の地べたにとどまっていたのでは、いつまで経っても見出せない考えを、首の長いifのフックで引っかけてみる。それが面白ければ、そしてさらなる仮定を支えられそうなもの であれば、「もしも」をまた使って次の段に吊り上げ、組み立てていく。
やがて詩が成り立つところまでくると、さて、そのもとの「もしも」をどうするか、詩人は考える。」(『もしも、詩があったなら』)

 

社会の中でも、常識の地べたから這い上がることは容易ではありません。そんなことを日々感じています。

 

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言葉の力 [書く]

 

 

小説『舟を編む』での、辞書作成に生涯を描けた老学者の死に際しての描写です。

 

言葉はときとして無力だ。荒木や先生の奥さんがどんなに呼びかけても、先生の命をこの世につなぎとめることはできなかった。
けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、
一番大切なものが俺たちの心のなかに残った。
生命活動が終わっても、肉体が灰となっても。物理的な死を超えてなお、魂は生きつづけることがあるのだと証すもの―先生の思い出が。
先生のたたずまい、先生の言動。それらを諮りあい、記憶をわけあい伝えていくために は、絶対に言葉が必要だ。馬締はふと、触れたことがないはずの先生の手の感触を、己れの掌に感じた。先生と最後に会った日、病室でついに握ることができなかった、ひんやりと乾いてなめらかだったろう先生の手を。

死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。

岸辺が宮本とケーキを食べている。編集部員は接待に徹し、会場では飲食をしないよう

にと言ったのに。楽しそうにお互いのケーキをフォークでつつきあっている。佐々木は壁

際で白ワインの入ったグラスを傾け、西岡はあいかわらず軽薄な物腰で挨拶まわりを続行

中である。」

 

言葉は無力だけど、何かを伝えるには言葉が必要だと結論付けます。

記憶を失った人にとって言葉はどんな役割をするのでしょうか。

 

「発信箱:息子を忘れた母=小倉孝保(欧州総局)毎日新聞 20150506

  

 目が覚めたら突然、17歳も年をとっていた。そんな時、人はどう反応するのだろう。

 英マンチェスターのナオミ・ジェイコブズさん(39)は7年前、普段通りにベッドから起き、鏡をのぞいて驚いた。

 急にしわが増えたと思えた。実際は32歳なのに、自分は15歳のつもりだった。一夜のうちに高校以来の記憶を失ったのだ。

 家の中を見渡した。知らない家具に囲まれていた。一人息子のレオさん(17)と一緒に撮った写真をみても、この子が誰なのかさえ分からなかった。夢で未来を見ているのだと思った。目を覚まそうと大声で叫んだが、何も変わらなかった。恐怖に襲われ、泣きわめいた。

 家族や友人の助けで、記憶を失ったらしいと認識した。インターネットの登場に驚き、米同時多発テロで世界が変わったことを知った。若い頃からの日記を読んで、自分の時間をもう一度たどった。1カ月半が過ぎた頃、ダンス音楽を聴いていて妹と一緒に踊った記憶がよみがえった。奇妙にも、「リメンバー・ミー(私を忘れないで)」という曲だった。8週間後に記憶が完全に戻った。

 ジェイコブズさんは幼児の頃、性的暴行を受けている。忘れようとしていた記憶が26歳の時、よみがえり、酒と麻薬に逃げたことがあった。「酒や麻薬でつらさを紛らわせようとしたことが記憶喪失の原因のようです。つらい記憶には、楽しい記憶を積み重ねるしかないと思いました」

 この体験を書いた自伝「忘れられた少女」(英文)が先日、発売された。ネットなど技術の利便さより、家族や友人のありがたさを知った2カ月だけの「未来体験」だった。」

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日記を読むことで生き直して記憶を取り戻しています。言葉の力は・・・。


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口舌の徒でなくても・どういう主張なのか [書く]

 

 

福岡市の今年度の文学賞が発表されました。

 

「第44 福岡市文学賞の受賞者が決定しました

44 回(平成25 年度)福岡市文学賞の受賞者が決定しましたので,お知らせいたし

ます。

本年度受賞者氏名(敬称略)

小説 水木 (みずき りょう)

鍋山 ふみえ (なべやま ふみえ)

大原 美代 (おおはら みよ)

短歌 新谷 休呆 (しんや きゅうほ)

俳句 大里 えつを (おおさと えつを)

川柳 中村 鈴女 (なかむら すずめ)」(市のホームページより一部引用)

 

詩の鍋山 ふみえさんの詩には若い頃から接していて、よく理解できないこともありましたが、才能の豊かさを感じていましたので、当然だと思いました。言葉も鋭いが社会性もあると読みましたが、いい読者とはいえませんので深くは立ち入りません。

 

詩の関連で、2014319日の西日本新聞「詩時評」で岡田哲也氏は次のように述べています。

 

「ほころび始めた桜を見ていると、亡くなったまど・みちおさんの「さくら」という詩が浮かんで来ます。「さくらのつぼみが/ふくらんできた//と おもっているうちに/もうまんかいになっている//きれいだなあ/きれいだなあ/とおもっているうちに/もうちりつくしてしまう//まいねんのことだけれど/またおもう//いちどでもいい/ほめてあげられたらなあ・・・と//さくらのことばで/さくらにそのまんかいを・・・」私はまどさんファンではありません。しかし、真っ正直な人だなあと思っていました。それは彼が戦時中書いた詩を、ことさら隠そうとも弁明しようともしなかったからです。それにひきかえ籾井勝人NHK会長さんはどうでしょうか。「考えを取り消したわけではないが、言ったことは取り消した」。こんな言い方もあるのかと、余りのはては笑うしかありませんでした。

私たち物書きは、口舌の徒です。口先三寸で渡世するからです。しかし、1寸の虫にも五分の魂があるように、私たちの片言隻語にも魂が宿っています。

日本語を軽んじる日本人は、日本を軽んじる日本人より、はるかに罪深いのではないでしょうか。わが身を飾るだけでなく、時とし てわが身を削るのがやまと言の葉です。」

 

まどさんが戦争協力の詩を書いていたとは知りませんでした。多くの人たちが書いていますので驚きませんが。主張を貫くことは困難なことですね。でも、簡単にモノを言わなくならないようにしたいですね。

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亡くなった人も偲んで [書く]

 

 

今日の新聞広告は多かったです。昨日も多かったのですが、3連休をあてにしているのでしょう。そのなかに、法律事務所の「終活」のセミナーの案内もありました。

 

コラム > デスク日記

 

 最近、「死」と向き合っている。こう書くと誤解を招くが、高齢者の“終活”を取材するうち、死を考えることは生き方を見直すことにつながると実感したからだ。

 「利用者の大半が健康で長生き。自己管理がしっかりしている証拠です」。身寄りのない高齢者の葬儀や死後の手続きなどを請け負う福岡市社会福祉協議会職員が言う。確かに、自らの死後まで配慮できる人には日常の生活管理など簡単だろう。

 「理想の死に方は3日間床に就いて亡くなる」とも聞く。家族に別れの時間を残すのが、死んでいく者の配慮という意味だ。介護の負担を考えて、別れの時間が長くもない3日というのは、ちょっと世知辛いが…。

 私自身、死を意識し始めて、やり残していることの多さを思い知る。日本では死を語ることはタブー視される傾向にある。生を充実させるため、もっと死を語ってもいい。 (井上真由美)=2013/09/13 西日本新聞朝刊=」

 

話は変わりますが、今日の西日本新聞のコラムに作家の訃報が伝えられていました。

 

「ある同人作家の軌跡

 

,同人文芸誌「現実と文学」(福岡市)47号が届いてページを開こうとしたら、プリントが1枚はさまれていて、同誌の主力同人・久間一 秋さんの卦報が記されていた。8 8日に病没、82歳とあった。 久間さんは文学賞の受賞歴はなかったが、連作短編集「黒い神」 (1984)、「善導寺郵便局 物語」(2001)をはじめ、 自分の体験を軸にした作品でいぶし銀のような光を放つ存在として同人誌界で一目置かれていた。なかでも貴重な証言となっているのが、青春時代に上京して新日本文学系の文学学校や「文芸首都」に在籍していたころの話である。「現実と文学」47号に掲載されている「惜別」でも、その間の事情を語っている。昭和初年代、創作に情熱を傾けた青春群像が、ノスタルジックな筆致で柔らかく描きとめられている。 「文芸首都」といえば、保高徳蔵が主宰して、北杜夫、佐藤愛子、 林京子、森穂子、中上健次などを 輩出した同人文芸誌の雄であっ た。保高の自宅で開かれる例会は 廊下まで人があふれる盛況で、椎名麟三、伊藤整、火野葦平らが講話に来ていたという。 こうした熱気は近来うかがうべくもないが、日本の近代文学の軌跡をたどってみると、東京にかぎらず北海道から九州・沖縄まで全国に広まった同人誌は、無数の人々の文学鍛錬の場でありつづけてきた口取り巻く状況は大きく変わったが、その根本の志は今も受け継がれている。絶筆を「惜別」と名付けた久間一秋さん。若い日に得た文学の火種を生涯絶やすことのなかった一人だとあらためて追悼の想いを深くする。」

 

手元にある「現実と文学」47号を取り出してみました。

「惜別」の書き出しは次のようになっています。

 

「横浜の孫娘の結婚式に出席したあと、私は妻たちと別れて、一人、東京へ行った。初めて九州から上京したときから六十年、東京を離れて五十年、経っていた。しぜんに足が向いたのは、代々木の文学学校だった。街

の様子はすっかり変っていた。学校があったのはこの辺だろうと思う所に立ってみた。教室があった古い日ソ図書館が甦ってきた・・・」

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作品として残っていくのでしょう。


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今年もよろしくお願い申し上げます [書く]

今年もいろんなことを考えていきたいと思います

みなさまのご健康をお祈りしています

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