So-net無料ブログ作成
検索選択

戦後の平和に感謝 [平和]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「唯一の被爆国 核禁止不参加  60

国連の核兵器禁止条約が 採択された。昭和208月、 多くの犠牲者を出した広 島、長崎への原爆投下後、 核兵器を違法とする条約が 国連で採択されたのは初めてのこと。私も妻も被爆2世。条約は喜ばしく、心から歓迎したい。

国連に加盟する193カ国のうち、6割を超える120カ国以上が参加、採択では122カ国が賛成した。米国の「核の傘」の下にあるオランダは反対を投じたが、自国の考えを主張した。

一方、唯一の被爆国である日本は、交渉会議に参加しなかった。米国の「核の傘」に頼ることを安全保障の基本としているからだ。被爆国として核廃絶の先頭に立つというのであれば、会議に参加し、核軍縮の議論をリードするべきだ。悲惨な原爆投下から72年。世界にはまだ15千 発を超える核兵器が存在す る。被爆者の母は90歳にな る。「再び被爆者をつくらない」が被爆者共通の願い だ。」(201784日西日本新聞)

 

核兵器禁止条約ができた。だが、日本政府は参加していません。戦後、まがりなりに。沖縄を除いてと言わないといけないのかもしれません。8月は平和の意味について毎年考える好機だと思います。

 

「96歳 戦病死の夫へ恋文 糸島の大櫛さんが平和授業 [福岡県]

 

 「毎日、貴方(あなた)と呼んでラブレターを書いています」。戦後70年を機に戦争で亡くなった夫への恋文を書き続けている糸島市の大櫛ツチヱさん(96)が4日、同市志摩小金丸の志摩中学校(藤井浩幸校長)で平和の尊さを語り掛けた。戦争で引き裂かれながら変わらぬ愛を貫く夫婦の“物語”に生徒たちは真剣な表情で聞き入った。

 大櫛さんは20歳の時に、顔も知らなかった四つ年上の仁九郎さんと結婚した。「いい夫婦になろうね」と仁九郎さんに言われ、美術館や映画館に行き、恋人のようにデートを楽しんだ。しかし、幸せな日々はわずか1年2カ月で終わりを迎える。長男勝彦さん(74)が生まれて間もない頃、赤紙が届き戦地へと旅だった。

 1945年8月、玉音放送が流れた。「無条件降伏してどうなるのかと思ったけれど、夫が帰ってくると思うと喜びに変わったの」。だが無情にも届いたのはパプアニューギニアで戦病死したという連絡だった。幼い子ども2人を抱え、子育てや仕事に励み、夫への思いは封印した。戦後70年のある日、雲を見ていて夫への思いがこみ上げた。「貴方、貴方、貴方」と毎日、恋文を書きつづった。

 約400人の生徒たちは、大櫛さんを取材したテレビ番組のDVDを見た後、大櫛さんの話を聞いた。生徒会長の桃井歩美さん(3年)は「一緒に暮らせることが貴重な時間だと思いました」とお礼の言葉を述べた。大櫛さんも「若い力をいただき元気になった。日本の平和を守ってください」と未来を担う若者たちに呼び掛けた。=2017/08/08付 西日本新聞朝刊=」

002.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

長崎平和宣言 [平和]

長崎市平和・原爆 長崎平和宣言

Nagasaki City - Peace & Atomic Bomb

 

 

 

長崎市平和・原爆 長崎平和宣言

 

Nagasaki City - Peace & Atomic Bomb

 

 

 

平成29年 長崎平和宣言

 

 

 

 「ノーモア ヒバクシャ」

 

この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。

 

 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。

 

 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。

 

 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。

 

 

 

 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。

 

 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。

 

 

 

 日本政府に訴えます。

 

 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。

 

 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。

 

 

 

 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。

 

 

 

 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。

 

 

 

 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。

 

遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。

 

 

 

 人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。

 

 

 

 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。

 

 

 

 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。

 

 

 

 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。

 

 

 

 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。

 

 

 

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

 

2017年(平成29年)8月9日

 

長崎市長  田上 富久

 

 

 

http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html

 

原爆資料館

 

 

 

長崎平和宣言に賛同される方は、「賛同」ボタンをクリックしてください。

 

  

 

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

人道支援こそ [平和]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「第二の人生は 主夫の道歩む  60

今春で、定年退職した。妻がぼけ防止のため再雇用を勧めたが、私は「主夫」を選んだ。 祖父は55歳で逝き、父は59歳の時、脳内出血で重度の身障者となった。私は高血圧や痛風で薬のお世話になっているものの、その時の2人の年を超えた。 平均寿命まであと20年、 自分で自由に行動できる健康寿命はあと10年と考え、 元気なうちに四国八十八カ 所も歩いてみたい、海外旅 行もしてみたいとあれこれ 考えていた。 主夫になり、毎日の行動 計画を作成した。着替えをするウオーキングをするひげをそる。1週間の行程表も作った。共働きだったので、家事や子育てにも協力してきたつもりだったが、弁当やタ食を準備した妻の負担がいかに大きかったか。パソコンで夕食のレシピを検索する。無限に出てきて、どれを選択するか迷う。私の酒量抑制のため、妻を車で送り迎えしている。妻は「重役待遇」と言いつつ、駅までの往復を歩かなくなったのでウオーキングマシンを買って室内で歩いている。妻の定年まであと6年。主夫業が続く。」(201773日西日本新聞)

 

夜明け頃のウォーキングは今頃多いです。日が昇れば暑いからですね。

福岡では中村哲氏のことは知られていると思います。が、全国区として知らせるべきだと思います。

 

「人道支援こそ 日本の役割だ  73

今日もまた、世界のどこかで繰り返されているテロの何と多いことでしょうか。最近では、英国やフランスなど欧州で頻発しています。 劇場という無防備な場所で起きた自爆テロ。罪なき少女の人生を情け容赦なくはぎ取ってしまう残酷卑劣なやり方に、地球の裏側にいる私たちも身震いするほどの怒りと悔しさにさいなまれます。ご遺族を思うと、 やり切れなさで胸がつぶれる思いです。 過激派組織「イスラム国」などの自爆テロは、貧困であるがゆえの無知、環境の劣悪さがなせるわざと思わざるを得ません。「人道支援こそテロ根絶」。まさにその通り。ペシャワール会のアフガニスタン用水路建設。代表の中村哲氏は医師でありながら、長い年月、人道支援に労力を惜しまず、携わってこられました。同じ日本人として誇りであり、本当に頭の下がる思いです。目には目を・・・ではなく、貧困からの救いこそが、平和の国日本が果たすべき役割と思う。

唯一の被爆国として核廃絶もしかり。平和憲法を守ることこそ「積極的平和主義」です。」(同前)

 

集団的自衛権による駆け付け警護などが平和をもたらすでしょうか。

 

 

 

009.JPG

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

6月19日は [平和]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「たくあん添えおにぎり渡す 77

ある春の日、自転車子どもの見守りパトロールをした。海岸で休憩していると、遠足の小学生たちに出会った。すると、1人の子が走り寄って、リンゴ一切れを渡し「おじいさん、いつもありがとう」と言って仲間の方ヘ走り去った。 70年近く前になるか。思い出した。福岡大空襲で両親を失った同級生が小さな漁村の祖父母に預けられ、私と同じ学級に来ていた。 ズックはなく、はだしか草履だった。弁当は時々、サツマイモがあるくらいで、いつも独り外に出ていた。当時級長だった私はほぼ毎日、先生のおにぎり1個を持たされ、自分のたくあんを添えて渡した。みんな一貧しかったけど、いじめはなく、登校拒否もなかった。遠足の時は私と56人からおにぎりをもらい、数個をおばあちゃんにと持ち帰っていた。リンゴ、バナナは絵でしか知らなかった。リンゴ一切れを味わいながら、平和を願った。」

 

619日と20日にかけての爆撃で多くの方が亡くなられました。むごい戦争を始めた人たちは後に免責され、政治の場に出てきた人もいます。亡くなるのは庶民です。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

正しいは手遅れ [平和]

 

 

加藤登紀子のひらり一言  201764日朝日新聞

   ■Reライフ 人生充実

 人生はおもろないといかん!

    ◇

 歌手になったきっかけをくれた、父の言葉。「正しい」より「面白い」を決め手に生きたらいい。「正しい」の包み紙をちょっと破いて。」

 

そうだと思いますが、面白いことに出会うことが少なかったように思う。それは、手前の感性の弱さなのですが、面白くなくても参加しなくてはならないことがあったかのように思いますが、それは弁解です。正しいことを選ぼうとする意志が上回っていたのかもしれません。

そんなことをふーっと考えさせた言葉でした。

 

004.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

失敗しないと [平和]

 

 

平和の尊さを確認したい・・・。

 

「平和の尊さ考えて アンネのバラ展15日まで 久留米 [福岡県]

 

 「アンネの日記」で知られ、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害で亡くなったユダヤ人少女、アンネ・フランクをしのぶ「アンネのバラ展2017」が6日、久留米市諏訪野町のえーるピア久留米で始まった。アンネの生涯を紹介したパネル展示も行われている。15日まで。

 アンネのバラは、日記に感銘を受けたベルギーの園芸家が開発したもので、1972年に日本国内に贈られ、各地に株分けされた。市は、石橋文化センターに生育を委託し、平和の尊さについて考えるきっかけにしてもらおうと、2006年から毎年展示している。

 えーるピアには8鉢があり、淡い黄色やオレンジ色の花を付けている。赤いつぼみから、開花につれて花の色が変わることから、15歳で亡くなったアンネの豊かな可能性をイメージしているという。文化センターで開催中のバラフェアにも植えられている=2017/05/07付 西日本新聞朝刊=」

 

 

渡意゛は変わりますが、「ラストコップTHE MOVIE」で主演の唐沢寿明さんのインタビューが掲載されていました。AIは将棋などの対局で力を発揮していますが、人間を超えることはないという人もいますが、よく分かりませんね。

 

「一映画版のテーマは人工知能 (A I)です。

★唐沢

実は怖いことなんですよね。なんか(A I)人のためになるように見せかけて、実は人間は必要じゃないだろう、って方向にいきそうな雰囲気じゃない?自分の過去も勝手に 好きな思い出だけばっかりにできる。それを勘違いして事実だと思い込むやつが出てくる。何 よりもコンビューターも完璧じゃないだろうから、セキュリティーを破ったやつが出てきた時 が怖い。全てにおいてね。

 一犯人摘発数も多いが誤認逮 捕も多い京極は「失敗があるか らいい」ということを言います。

★唐沢

失敗がないと人間は どうしても成長しない。分かりやすく言うとスポーツ選手は負ける時は 負けるじゃないですか。でも彼らは失敗したことからまた得るものがある。誰かに 負けたことがある人間しかだめなんですよ、本当は。AIの指示によって失敗しないように人生を歩む。それではだめでしょ。 ただ、このままばーっといったら戦争になりますよというのが分かればいいよね。まあ、 使い方によるのかな。(一部引用)」(201757日西日本新聞)

 

012.JPG

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

糖尿を案じて [平和]

 

 

糖尿についての投書です。

 

「糖尿の主治医それはあなた 63

生まれて初めて入院した。昨年、どうにもこうにも体が悲鳴を上げて、高い血糖値とともに3週間の入院生活に突入した。
主治医の先生より「原因も治し方も分かっていますから、安心してください」 と心強い言葉を頂き、治療に専念して退院にこぎ着けた。 元々凝り性なので、糖尿病用の食事を栄養士さんに聞いた通り実行した。ぐんぐん血糖値が安定してき
た。食品交換表を使い、白米を豆や芋、パンに置き換えて食す。足りない時は海藻、キノコ、こんにゃくで 補充して11600キロカロリーを維持する。 お医者さんの「糖尿病の 主治医はあなた自身ですよ」という言葉を心にしっかりと受け止め、運動は家の片付けが一番と日々、頑張っている。しかしながら、日本では4人に1人が糖尿病らしい。何ともはや・・・。」

(2017325日西日本新聞)

 

私も米食中心ですので・・・。だが、こんな投書を読むと平和がなければと思いました。

 

1日に米10粒 餓死の悲惨さ
 77

ご飯の炊きあがったおいしそうな匂い。幸せの一瞬。が、「110粒」と呪文のような言葉が頭をかすめる。親友のお父上は40代で戦死。餓死だったそうだ。手を尽くして、やっとそ
の消息が分かったのは、彼女が50代になってから。 以来、何度もかの地に慰霊の旅をしている。昨秋に 訪れたとき、現地の人が「台風の後、またまた骨が出てきて・・・」と、気の毒そうに言ったそうだ。戦場は激戦の地、フィリピンのレイテ島。白骨街道と呼ばれたそうだ。大の男が敗走に次ぐ敗走の中で、1日米10粒。餓死するまでの苦しみを思うと、あまりにも悲惨である。敗戦後の引き揚げ以来、私たちにも食料がほとんどない時代があった。100歳になった母がきっぱり言い切った。「一人も子どもを死なせなかったことが、私の一番の幸せです」と。」(2017324日西日本新聞)

 

平和の大切さが改めて感じられます。同じ日の投書にはんなものもありました。

 

「原爆で娘失い 自分責めた母  70

 母が昨年暮れ、96歳で逝った。広島原爆に遭い、長女の手を引き、死の灰と燃え盛る炎の中を必死に逃げた。が、数日後、長女はバラック小屋の病院で、配給のたった1本のろうそくの薄暗さの下、5歳という短い生涯を終えた。 娘に会うのを楽しみに帰還した父を待っていたのは、何と四十九日の法要だったそうだ。
その父も戦争の後遺症で 35歳の若さで、2歳の弟と7歳の私を残して旅立った。それから私が嫁ぐまで、母の寝姿を目にした記憶が

ない。母のたくましさには本当に頭が下がる。昨年、オパマ米大統領が広島を訪問した映像を見て、母は涙ぐんでいた。「ごめんね」と、仏壇の長女に手を合わせていた。死ぬまで自分を責めていた。母に原爆のことを尋ねたことがある。「本土決戦になっていたら、さらに多くの犠牲者が出ていただろうから・・・」と意外な言葉が返ってきた。つらい過去を背負って生きた母だった。「今までありがとう」と一筆添えて、父と姉の写真も一緒にひつぎの中に、そっと入れた。」(同前)

004.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ベトナムの若者 [平和]

 

 

 

「仲畑流・万能川柳  毎日新聞20161222日 東京朝刊

☆印は秀逸(仲畑貴志選)

 

☆ヨーイドン言えば走ってくれた頃 東京 ホヤ栄一

他人事のよに人類を論じてる 相生 ブー風ウー

いつの日か治ると信じ生きていく 八王子 剱清山
(以下略)」

 

ベトナムと言えばアメリカとの戦争に勝った国としてか知らない年寄りには、次のような記事は新鮮な驚きです。平和からこそだとも思いますが。

 

「ベトナム 日本文化を披露する若者 迫田陽子

 

先日、友人のグエットさ んから「天皇陛下の誕生日 を祝うイベントにモイ(招待)したいです」と誘われ ました。彼女はホーチミン
市の国際交流協会に勤めています。主に日本とベトナ
ムとの交流事業に携わって
いて、毎年12月に日本にゆかりのあるベトナム人やホ

―チミン在住の日本人を招いて、天皇誕生日祝賀会を主催しているとのこと。

長崎留学経験のあるベトナム人の友人と連れ立って出席しました。ベトナムと日本それぞれの来賓によるあいさつや、この1年間 の日越関係を振り返るスピ ーチも印象深かったのです が、圧倒されたのはベトナ
ムの若者たちによるパフォーマンスです。市内の大学で日本一語を学ぶ女子学生たちの「よさこい」に始まり、男子学生の演歌に剣舞、制服風のコスチューム
が愛らしい女子学生
によるアイドルのヒット曲(だと思いま す。たぶん)など、 次々と披露してくれ
ました。
一瞬どこにいるの
かを忘れるほどでし
た。きっと日本では
体験できない盛りだくさんの祝賀会でし
ょう。大勢の客を前
に気後れすることなく、日本のポップスを歌い、生き生きと踊る彼らに感心するばかりでした。音楽でもアニメでも、入り口は何であれ、ベトナムの若い世代が日本の文化に興味を持ち、表現してくれるのはうれしいことです。彼らに負けずに両国の懸け橋となれるよう、来年も頑張ります。(ベトナム・ホーチミン在住ジャーナリスト)」(20161219日西日本新聞)

003.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

平和でこそ [平和]

 

 

 

「仲畑流・万能川柳   毎日新聞20161128日 東京朝刊

 

☆いい句出来検索すればあるんだよ 神戸 芋粥

 

サーカスの子らが一月居たクラス 大分 春野小川

 

製造者責任なのか親が詫び 静岡 石垣いちご
 (以下略)」

 

私が育った農村では、大衆演劇一座を招いての時代劇が貴重な娯楽でした。そして、一月程度、転校してきて、また、いなくなりました。サーカスは人が集まる場ではなかったので見かけなかったように思う。どこか都会の風の匂いさせていた子どもたちのようでした。

 

被爆者・谷口稜暉さんの語り部としての活動を絵本にした『

生きているかぎり語りつづける ―谷口稜曄さんが世界中に伝えたいこと

生きているかぎり語りつづける ―谷口稜曄さんが世界中に伝えたいこと

  • 作者: 舘林 愛
  • 出版社/メーカー: 主婦の友社
  • 発売日: 2016/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



』を読みました。こんなことが繰り返されないことを切に望みます。少し前の記事をご紹介します。

 

 

「核への恐怖を 語り続けよう 77

 

 オランダ人の友人は長崎で捕虜だったとき、被爆した。ドックで仕事中で、幸いけがはなかったが、市内の片付けに入って、そのひどさにがくぜんとした。いくら戦争でも、こんな爆弾は「神が許さない」と思ったそうだ。彼は米国でも、原爆反対の講演をしたという。わが家にホームステイした際も、FMなどで3回スピーチした。10年ほど前、最後に福岡に来たとき、日本人も原爆のことを忘れかけていると心配していた。このたびG7サミットのついでとはいえ、米国大統領が広島を訪問したことは、核廃絶ヘ大きな前進になるだろう。亡くなるまで、原爆使用を悔いていた友人に、この朗報を伝えられなかったことは残念だ。彼が聞いたらどんなに喜んだことか。最近、日本を訪問したら、
広島か長崎に寄る米国人が増えてきた。核への恐怖を語ってほしい。」(201666日西日本新聞)

 

 

 

「花時計

 

「原爆は長崎には落ちなかった」。長崎総局に赴任した9年前、そんな言い方に耳を疑った。地元のお年寄りによると、終戦直後に語られたものだという。言葉は「浦上.に落とされた」と続く▽同心円状に被害が出た広島と異なり、長崎は市街地と、原爆がさく裂した浦上地区が山で隔てられ、被害に差が出た。お年寄りの言葉はカトリックの里だった「異文化」の浦上
に対し、一部市民が使った心ない表現だった▽長
崎では今も、行政が定め
る境界線の外にいたため
に被爆者と認められない人々が「線引き」への根強い不信を抱える。先日、
オバマ米大統領は広島の原爆資料館を10分間訪れた。原爆の悲惨さに触れることはできただろう。だが70年過ぎても被爆地に残る澱のような不条理は、展示することができ

ない。(福間慎一)」(同前)

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

鳩の果たした仕事 [平和]

 

 

九州場所60年 ウルフと刻む 「8連覇」も連勝「53」も

大相撲九州場所(11月13日初日、福岡国際センター)が今年で60年目の節目を迎える。1957年に本場所に昇格し、後の大横綱大鵬が関脇時代の60年に初優勝し、95年には貴乃花と若乃花の兄弟優勝決定戦が実現。2010年は横綱白鵬の連勝が「63」で止まるなど数々の名勝負が繰り広げられた場所だ。中でも九州場所でめっぽう強く、ファンを沸かせたのが、「ウルフ」の愛称で国民的な人気を集めた元横綱千代の富士。今年7月に膵臓(すいぞう)がんのため、61歳の若さで死去した小さな大横綱の偉業とともに九州場所の歴史を振り返った。」(20161029日西日本新聞)

 

当初、開催場所は現在のソラリアのところにあったスポーツセンター。冬場はスケート場になっていたと思う。2階には映画館があったはず。就職したころ、入場券が手に入ったりすると仕事中に観て来いと言われて出かけ。戻ってまた仕事したりしていました。すぐにそんなこともできなくなりました。スポーツセンターから九電記念体育館そして福岡国際センターと変わっていきました。今年は、自宅近くに田子の浦部屋が宿舎となりそうなので、稀勢の里・高安を応援することにしたい。

 

スポーツセンターから東に行くと西日本新聞社の旧社屋がありました。その屋上に鳩小屋があったという。

 

「論説委員の目 伝書バトは役目を終えても

 

 旧社屋の屋上にはその昔、ハト小屋があって伝書バトを飼育していたという。入社間もないころ、先輩にそう伝え聞いた時は本当にびっくりした。驚いてから、もう三十数年たつ。今ならさしずめ「昔はざら紙の原稿用紙にペンで記事を書いていたんだ」とパソコンになじんだ若い記者に教えるようなものだろう。

 「わが社のハトの歴史は古い。もっとも終戦時には、飼料難などでわずか四十羽ていどに減っていた。戦後も燕麦(えんばく)、黒豆などの特配(特別配給のこと)をうけてしのぎながら、しかし伝書バトとしての活躍は再び活発化した」(「西日本新聞戦後小史」、1962年刊)。

 中国大陸や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船の写真フィルム、離島からの総選挙開票速報など、伝書バトは貴重な情報を素早く新聞社に送り届けてくれた。「数々のあっぱれな業績を残している」と小史はたたえている。

 通信技術や交通手段の発達で、伝書バトは「お役御免」となる。小史によれば、最後まで飼育されていた147羽が福岡市の動物園に寄贈されたのは58年4月だった。

 伝書バトは多くの新聞社で活躍したが、弊社とハトの縁はそれだけではない。かつて新聞題字の地紋にはハトの群れが優雅に舞っていた。社章もハトの羽を図案化していた。もちろん、ハトは「平和の使者」「平和の象徴」だ。

 「改憲勢力」が衆参両院で3分の2以上を占める国会で憲法の改正論議が本格化しようとしている。「駆け付け警護」など、安全保障関連法に基づく自衛隊の新任務が国連平和維持活動(PKO)で付与されようとしている。平和とは何か。改めて考えさせられる戦後71年である。

 伝書バトはとうに役目を終え、題字や社章からハトの図柄は消えたけれど、こと「平和」については、とことんこだわる新聞社であり続けたいと思う。=2016/10/30 西日本新聞朝刊=」

004.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感