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6月19日は [平和]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「たくあん添えおにぎり渡す 77

ある春の日、自転車子どもの見守りパトロールをした。海岸で休憩していると、遠足の小学生たちに出会った。すると、1人の子が走り寄って、リンゴ一切れを渡し「おじいさん、いつもありがとう」と言って仲間の方ヘ走り去った。 70年近く前になるか。思い出した。福岡大空襲で両親を失った同級生が小さな漁村の祖父母に預けられ、私と同じ学級に来ていた。 ズックはなく、はだしか草履だった。弁当は時々、サツマイモがあるくらいで、いつも独り外に出ていた。当時級長だった私はほぼ毎日、先生のおにぎり1個を持たされ、自分のたくあんを添えて渡した。みんな一貧しかったけど、いじめはなく、登校拒否もなかった。遠足の時は私と56人からおにぎりをもらい、数個をおばあちゃんにと持ち帰っていた。リンゴ、バナナは絵でしか知らなかった。リンゴ一切れを味わいながら、平和を願った。」

 

619日と20日にかけての爆撃で多くの方が亡くなられました。むごい戦争を始めた人たちは後に免責され、政治の場に出てきた人もいます。亡くなるのは庶民です。


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正しいは手遅れ [平和]

 

 

加藤登紀子のひらり一言  201764日朝日新聞

   ■Reライフ 人生充実

 人生はおもろないといかん!

    ◇

 歌手になったきっかけをくれた、父の言葉。「正しい」より「面白い」を決め手に生きたらいい。「正しい」の包み紙をちょっと破いて。」

 

そうだと思いますが、面白いことに出会うことが少なかったように思う。それは、手前の感性の弱さなのですが、面白くなくても参加しなくてはならないことがあったかのように思いますが、それは弁解です。正しいことを選ぼうとする意志が上回っていたのかもしれません。

そんなことをふーっと考えさせた言葉でした。

 

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失敗しないと [平和]

 

 

平和の尊さを確認したい・・・。

 

「平和の尊さ考えて アンネのバラ展15日まで 久留米 [福岡県]

 

 「アンネの日記」で知られ、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害で亡くなったユダヤ人少女、アンネ・フランクをしのぶ「アンネのバラ展2017」が6日、久留米市諏訪野町のえーるピア久留米で始まった。アンネの生涯を紹介したパネル展示も行われている。15日まで。

 アンネのバラは、日記に感銘を受けたベルギーの園芸家が開発したもので、1972年に日本国内に贈られ、各地に株分けされた。市は、石橋文化センターに生育を委託し、平和の尊さについて考えるきっかけにしてもらおうと、2006年から毎年展示している。

 えーるピアには8鉢があり、淡い黄色やオレンジ色の花を付けている。赤いつぼみから、開花につれて花の色が変わることから、15歳で亡くなったアンネの豊かな可能性をイメージしているという。文化センターで開催中のバラフェアにも植えられている=2017/05/07付 西日本新聞朝刊=」

 

 

渡意゛は変わりますが、「ラストコップTHE MOVIE」で主演の唐沢寿明さんのインタビューが掲載されていました。AIは将棋などの対局で力を発揮していますが、人間を超えることはないという人もいますが、よく分かりませんね。

 

「一映画版のテーマは人工知能 (A I)です。

★唐沢

実は怖いことなんですよね。なんか(A I)人のためになるように見せかけて、実は人間は必要じゃないだろう、って方向にいきそうな雰囲気じゃない?自分の過去も勝手に 好きな思い出だけばっかりにできる。それを勘違いして事実だと思い込むやつが出てくる。何 よりもコンビューターも完璧じゃないだろうから、セキュリティーを破ったやつが出てきた時 が怖い。全てにおいてね。

 一犯人摘発数も多いが誤認逮 捕も多い京極は「失敗があるか らいい」ということを言います。

★唐沢

失敗がないと人間は どうしても成長しない。分かりやすく言うとスポーツ選手は負ける時は 負けるじゃないですか。でも彼らは失敗したことからまた得るものがある。誰かに 負けたことがある人間しかだめなんですよ、本当は。AIの指示によって失敗しないように人生を歩む。それではだめでしょ。 ただ、このままばーっといったら戦争になりますよというのが分かればいいよね。まあ、 使い方によるのかな。(一部引用)」(201757日西日本新聞)

 

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糖尿を案じて [平和]

 

 

糖尿についての投書です。

 

「糖尿の主治医それはあなた 63

生まれて初めて入院した。昨年、どうにもこうにも体が悲鳴を上げて、高い血糖値とともに3週間の入院生活に突入した。
主治医の先生より「原因も治し方も分かっていますから、安心してください」 と心強い言葉を頂き、治療に専念して退院にこぎ着けた。 元々凝り性なので、糖尿病用の食事を栄養士さんに聞いた通り実行した。ぐんぐん血糖値が安定してき
た。食品交換表を使い、白米を豆や芋、パンに置き換えて食す。足りない時は海藻、キノコ、こんにゃくで 補充して11600キロカロリーを維持する。 お医者さんの「糖尿病の 主治医はあなた自身ですよ」という言葉を心にしっかりと受け止め、運動は家の片付けが一番と日々、頑張っている。しかしながら、日本では4人に1人が糖尿病らしい。何ともはや・・・。」

(2017325日西日本新聞)

 

私も米食中心ですので・・・。だが、こんな投書を読むと平和がなければと思いました。

 

1日に米10粒 餓死の悲惨さ
 77

ご飯の炊きあがったおいしそうな匂い。幸せの一瞬。が、「110粒」と呪文のような言葉が頭をかすめる。親友のお父上は40代で戦死。餓死だったそうだ。手を尽くして、やっとそ
の消息が分かったのは、彼女が50代になってから。 以来、何度もかの地に慰霊の旅をしている。昨秋に 訪れたとき、現地の人が「台風の後、またまた骨が出てきて・・・」と、気の毒そうに言ったそうだ。戦場は激戦の地、フィリピンのレイテ島。白骨街道と呼ばれたそうだ。大の男が敗走に次ぐ敗走の中で、1日米10粒。餓死するまでの苦しみを思うと、あまりにも悲惨である。敗戦後の引き揚げ以来、私たちにも食料がほとんどない時代があった。100歳になった母がきっぱり言い切った。「一人も子どもを死なせなかったことが、私の一番の幸せです」と。」(2017324日西日本新聞)

 

平和の大切さが改めて感じられます。同じ日の投書にはんなものもありました。

 

「原爆で娘失い 自分責めた母  70

 母が昨年暮れ、96歳で逝った。広島原爆に遭い、長女の手を引き、死の灰と燃え盛る炎の中を必死に逃げた。が、数日後、長女はバラック小屋の病院で、配給のたった1本のろうそくの薄暗さの下、5歳という短い生涯を終えた。 娘に会うのを楽しみに帰還した父を待っていたのは、何と四十九日の法要だったそうだ。
その父も戦争の後遺症で 35歳の若さで、2歳の弟と7歳の私を残して旅立った。それから私が嫁ぐまで、母の寝姿を目にした記憶が

ない。母のたくましさには本当に頭が下がる。昨年、オパマ米大統領が広島を訪問した映像を見て、母は涙ぐんでいた。「ごめんね」と、仏壇の長女に手を合わせていた。死ぬまで自分を責めていた。母に原爆のことを尋ねたことがある。「本土決戦になっていたら、さらに多くの犠牲者が出ていただろうから・・・」と意外な言葉が返ってきた。つらい過去を背負って生きた母だった。「今までありがとう」と一筆添えて、父と姉の写真も一緒にひつぎの中に、そっと入れた。」(同前)

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ベトナムの若者 [平和]

 

 

 

「仲畑流・万能川柳  毎日新聞20161222日 東京朝刊

☆印は秀逸(仲畑貴志選)

 

☆ヨーイドン言えば走ってくれた頃 東京 ホヤ栄一

他人事のよに人類を論じてる 相生 ブー風ウー

いつの日か治ると信じ生きていく 八王子 剱清山
(以下略)」

 

ベトナムと言えばアメリカとの戦争に勝った国としてか知らない年寄りには、次のような記事は新鮮な驚きです。平和からこそだとも思いますが。

 

「ベトナム 日本文化を披露する若者 迫田陽子

 

先日、友人のグエットさ んから「天皇陛下の誕生日 を祝うイベントにモイ(招待)したいです」と誘われ ました。彼女はホーチミン
市の国際交流協会に勤めています。主に日本とベトナ
ムとの交流事業に携わって
いて、毎年12月に日本にゆかりのあるベトナム人やホ

―チミン在住の日本人を招いて、天皇誕生日祝賀会を主催しているとのこと。

長崎留学経験のあるベトナム人の友人と連れ立って出席しました。ベトナムと日本それぞれの来賓によるあいさつや、この1年間 の日越関係を振り返るスピ ーチも印象深かったのです が、圧倒されたのはベトナ
ムの若者たちによるパフォーマンスです。市内の大学で日本一語を学ぶ女子学生たちの「よさこい」に始まり、男子学生の演歌に剣舞、制服風のコスチューム
が愛らしい女子学生
によるアイドルのヒット曲(だと思いま す。たぶん)など、 次々と披露してくれ
ました。
一瞬どこにいるの
かを忘れるほどでし
た。きっと日本では
体験できない盛りだくさんの祝賀会でし
ょう。大勢の客を前
に気後れすることなく、日本のポップスを歌い、生き生きと踊る彼らに感心するばかりでした。音楽でもアニメでも、入り口は何であれ、ベトナムの若い世代が日本の文化に興味を持ち、表現してくれるのはうれしいことです。彼らに負けずに両国の懸け橋となれるよう、来年も頑張ります。(ベトナム・ホーチミン在住ジャーナリスト)」(20161219日西日本新聞)

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平和でこそ [平和]

 

 

 

「仲畑流・万能川柳   毎日新聞20161128日 東京朝刊

 

☆いい句出来検索すればあるんだよ 神戸 芋粥

 

サーカスの子らが一月居たクラス 大分 春野小川

 

製造者責任なのか親が詫び 静岡 石垣いちご
 (以下略)」

 

私が育った農村では、大衆演劇一座を招いての時代劇が貴重な娯楽でした。そして、一月程度、転校してきて、また、いなくなりました。サーカスは人が集まる場ではなかったので見かけなかったように思う。どこか都会の風の匂いさせていた子どもたちのようでした。

 

被爆者・谷口稜暉さんの語り部としての活動を絵本にした『

生きているかぎり語りつづける ―谷口稜曄さんが世界中に伝えたいこと

生きているかぎり語りつづける ―谷口稜曄さんが世界中に伝えたいこと

  • 作者: 舘林 愛
  • 出版社/メーカー: 主婦の友社
  • 発売日: 2016/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



』を読みました。こんなことが繰り返されないことを切に望みます。少し前の記事をご紹介します。

 

 

「核への恐怖を 語り続けよう 77

 

 オランダ人の友人は長崎で捕虜だったとき、被爆した。ドックで仕事中で、幸いけがはなかったが、市内の片付けに入って、そのひどさにがくぜんとした。いくら戦争でも、こんな爆弾は「神が許さない」と思ったそうだ。彼は米国でも、原爆反対の講演をしたという。わが家にホームステイした際も、FMなどで3回スピーチした。10年ほど前、最後に福岡に来たとき、日本人も原爆のことを忘れかけていると心配していた。このたびG7サミットのついでとはいえ、米国大統領が広島を訪問したことは、核廃絶ヘ大きな前進になるだろう。亡くなるまで、原爆使用を悔いていた友人に、この朗報を伝えられなかったことは残念だ。彼が聞いたらどんなに喜んだことか。最近、日本を訪問したら、
広島か長崎に寄る米国人が増えてきた。核への恐怖を語ってほしい。」(201666日西日本新聞)

 

 

 

「花時計

 

「原爆は長崎には落ちなかった」。長崎総局に赴任した9年前、そんな言い方に耳を疑った。地元のお年寄りによると、終戦直後に語られたものだという。言葉は「浦上.に落とされた」と続く▽同心円状に被害が出た広島と異なり、長崎は市街地と、原爆がさく裂した浦上地区が山で隔てられ、被害に差が出た。お年寄りの言葉はカトリックの里だった「異文化」の浦上
に対し、一部市民が使った心ない表現だった▽長
崎では今も、行政が定め
る境界線の外にいたため
に被爆者と認められない人々が「線引き」への根強い不信を抱える。先日、
オバマ米大統領は広島の原爆資料館を10分間訪れた。原爆の悲惨さに触れることはできただろう。だが70年過ぎても被爆地に残る澱のような不条理は、展示することができ

ない。(福間慎一)」(同前)

 

 


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鳩の果たした仕事 [平和]

 

 

九州場所60年 ウルフと刻む 「8連覇」も連勝「53」も

大相撲九州場所(11月13日初日、福岡国際センター)が今年で60年目の節目を迎える。1957年に本場所に昇格し、後の大横綱大鵬が関脇時代の60年に初優勝し、95年には貴乃花と若乃花の兄弟優勝決定戦が実現。2010年は横綱白鵬の連勝が「63」で止まるなど数々の名勝負が繰り広げられた場所だ。中でも九州場所でめっぽう強く、ファンを沸かせたのが、「ウルフ」の愛称で国民的な人気を集めた元横綱千代の富士。今年7月に膵臓(すいぞう)がんのため、61歳の若さで死去した小さな大横綱の偉業とともに九州場所の歴史を振り返った。」(20161029日西日本新聞)

 

当初、開催場所は現在のソラリアのところにあったスポーツセンター。冬場はスケート場になっていたと思う。2階には映画館があったはず。就職したころ、入場券が手に入ったりすると仕事中に観て来いと言われて出かけ。戻ってまた仕事したりしていました。すぐにそんなこともできなくなりました。スポーツセンターから九電記念体育館そして福岡国際センターと変わっていきました。今年は、自宅近くに田子の浦部屋が宿舎となりそうなので、稀勢の里・高安を応援することにしたい。

 

スポーツセンターから東に行くと西日本新聞社の旧社屋がありました。その屋上に鳩小屋があったという。

 

「論説委員の目 伝書バトは役目を終えても

 

 旧社屋の屋上にはその昔、ハト小屋があって伝書バトを飼育していたという。入社間もないころ、先輩にそう伝え聞いた時は本当にびっくりした。驚いてから、もう三十数年たつ。今ならさしずめ「昔はざら紙の原稿用紙にペンで記事を書いていたんだ」とパソコンになじんだ若い記者に教えるようなものだろう。

 「わが社のハトの歴史は古い。もっとも終戦時には、飼料難などでわずか四十羽ていどに減っていた。戦後も燕麦(えんばく)、黒豆などの特配(特別配給のこと)をうけてしのぎながら、しかし伝書バトとしての活躍は再び活発化した」(「西日本新聞戦後小史」、1962年刊)。

 中国大陸や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船の写真フィルム、離島からの総選挙開票速報など、伝書バトは貴重な情報を素早く新聞社に送り届けてくれた。「数々のあっぱれな業績を残している」と小史はたたえている。

 通信技術や交通手段の発達で、伝書バトは「お役御免」となる。小史によれば、最後まで飼育されていた147羽が福岡市の動物園に寄贈されたのは58年4月だった。

 伝書バトは多くの新聞社で活躍したが、弊社とハトの縁はそれだけではない。かつて新聞題字の地紋にはハトの群れが優雅に舞っていた。社章もハトの羽を図案化していた。もちろん、ハトは「平和の使者」「平和の象徴」だ。

 「改憲勢力」が衆参両院で3分の2以上を占める国会で憲法の改正論議が本格化しようとしている。「駆け付け警護」など、安全保障関連法に基づく自衛隊の新任務が国連平和維持活動(PKO)で付与されようとしている。平和とは何か。改めて考えさせられる戦後71年である。

 伝書バトはとうに役目を終え、題字や社章からハトの図柄は消えたけれど、こと「平和」については、とことんこだわる新聞社であり続けたいと思う。=2016/10/30 西日本新聞朝刊=」

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広島は理解されたのでしょうか [平和]

 

 

 

国連で核兵器禁止条約制定に向けた協議に反対するとした「唯一の被爆国」は世界から見たらどうなるのでしょうか。そうしたなかで『



-四國五郎と原爆の表現者たち』(永田浩三)は、詩画人四國五郎のことを取り上げていますが、峠三吉など周辺の人たちを取り上げています。戦後の広島の青春群像のようです。

 

 

登場人物の一人、作家の大田洋子のくだりです。

 

「一九四五年八月三O日の朝日新聞に「海底のような光~原子爆弾の空襲に遭って~」
ある。降伏調印の直前に、大田が朝日新聞に送り、掲載されたものだ。

 

「朝や黄昏など、特に風景の美しかった大田川の下流、私どもの住んでいた町の土手から降りて行く河原に火事をさけてすごした六日、そして七日と八日、その聞に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。私はそれを凄惨だったとは思いたくない。危険と忍耐と、純粋な民族感への満ち足りた感情との三日間乞食のように河原に起き伏した短い日、私たちはどんな貴族よりも高い精神のなかに呼吸していた。死骸と並んで寝ることも怖れね忍耐の限度を見た。おびただしい人の群れのだれも泣かない。誰も自己の感情を語らない。()新兵器の残忍性を否定することはできない。だが私は精神は兵器によって焼き払う術もないと思った」

 

原爆の投下直後の生々しい対峙の精神です。続けて

 

「大田洋子は、戦前すでに名の知られた作家、だった。 一九四五年一月、大田は東京の家を引き払い、広島 市白島九軒町の妹と母、が住む家に引っ越してきた。そして八月六日を迎えた。

「そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見たのだった。するとすぐ、大地を震わせるような恐ろしい音が鳴り響いた。() 気がついたとき私は微塵に砕けた壁土の煙の中に佇んでいた。ひどくぼんやりして、ばかのように 立っていた」。大田作品のなかで最も有名な「屍の街』の一節である。大田の感覚は冴え、緊張感のある文章、が続く。」

 

読み終わった時に、峠三吉の生き方が強く残っています。四國五郎と峠のかかわりの深さもありますが、喀血を繰り返しながら、創作活動に力を入れた姿が浮かんできました。


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命に思いをはせて [平和]

 

 

投書欄からです。

 

「心もとない防衛大臣答弁   75

 

一安倍内閣の目玉閣僚である女性の稲田防衛相が国会 で野党から集中砲火を浴び た。白紙領収書問題のほか、核保有の検討をちらつかせたりと疑念を生む事態に至った。
安倍政権は女性が輝ける
社会の実現を「隗より始めよ」と稲田防衛相、丸川五輪相、高市総務相と女性大臣を起用した。それまでは大変良い。が、である。
安倍首相の秘蔵っ子といわれる稲田氏は、防衛大臣の重要性をいかに考えているのか。わが国を取り巻く国防の厳しい現実に照らすと、稲田氏の答弁は甚だ心
もとない印象は否めない。現内閣でも誰が文部科学大臣か、農林水産大臣か・・・。
個性がなく、印象が薄い。それゆえ、逆に女性大臣の
言動が、良くも悪くも目立つというもの。派閥や当選回数は国民には全く関係のないこと。真の実力を付け、日本丸のかじ取りをしっかりやってほしい。」(20161026西日本新聞

 

 104歳だという篠田桃紅氏は次のように書いています。

 

「孤独の影

 

孤独とどう向き合えばいいのか、

それは私にもわかりません。だから、

私は絵を描いて発表しています。

私に共鳴してくれる人を

求めているわけではない。ただ、

私の孤独というものを表しているだけです。

孤独というものが、私の生きているかたち。

すべてです。

つくったものは、私の孤独の影です。」(『人生は一本の線』) 

 

孤独を表現するために絵を描くのだという。孤独は悪いものではなく、必要なものですが、孤独を感じる力がない人も少なくないように思う。自分も含めて、錯覚の中で生きているのかもしれない。大臣は錯覚しないでほしいが。

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政治的とは [平和]

 

 

例えば、次の戦争体験記も政治的だというのでしょうか。

 

「『足はあるか』帰還の私に母 95

 

私は陸軍暁部隊に召集され、昭和1812月、南太平中洋のニューギニアに派遣された。部隊は通信隊。艦と艦、艦と陸の連絡が任務の無線と手旗の中隊だった。私たちはビアク島に入つた。「米軍が上陸する」との情報で、中隊本部に戻った直後、米軍が作戦開始。
入院中の者まで必死に戦ったが、敗走した。密林の中、ここで私はマラリアと赤痢にかかり、入院。医者も薬もなく、ただ寝ているだけ。治りかけた
とき、転進命令が出た。病体でよろよろしながら山越
え、谷越えの連続。
途中、同年兵が気が変になり、山中に残して前進し
た。大きな川を渡るとき、
上官が流された。海岸に出
ると、多数の兵の遺体。砂が掛けられてはいたが、曲がった膝が突き出ていた。私もさんずの川の淵まで3度行った後、214月に帰国した。私を見た母は「足はあるか」と言った。戦死の通報があっていたのだ。ニューギニアの密林の中には、今も多数の遺骨が眠っていることだろう。古里に帰りたがっている遺骨が・・・。」(2016916西日本新聞

 

政治的というなら取り消した見方も政治的ではないか。戦争賛成も、反対も、意見を表明する場を支援するのが良いのでは・・・。

 

「戦争展の後援行政の責任だ  

 「平和のための戦争展」が「政治的主張だ」として、福岡市が名義後援を取り消しました。残念でなりません。そもそも過去の戦争の実相を知らせ、平和な社会を求めることは現代において、至極当たり前のことです。政治的と言われる筋合いのものではない。それが政治的というなら、怖い時代です。「反原発」や「反核」について、世論が二分されているというなら、その意見をお互いに披露する場所を提供するのが、行政の役割です。偏っているからと後援をしないのは、言論の封殺にも等しいと考えます。後援を取り消されたら、公的な場所を借りることも難しくなり、高額の会場費で開催できなくなる可能性もあるでしょう。この国の将来を真剣に考える場を提供するのは、行政の責任です。福岡市は政治離れの社会をつくりたいのでしょうか。」(2016917日西日本新聞)


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